北九州市立大学同窓会

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支部組織

福岡支部

サークル活動

◎「登山部」と「野あるき野の花の会」

登山1

一木会の席上、「登山をしよう」と話がまとまり、平 成3 年3 月21 日、近郊で一番安全かつ低い山ということ で、太宰府近郊の天拝山を選んだ。当日、集まったのは、 森信一郎(32 ・米)、下英雄(34 ・商)、城戸巳勝(41 ・米)、 高橋義信(45 ・商)の4 人。お茶とお菓子で乾杯した。

2 回目は、同年11 月23 日、福岡東部の立花山に先の4 人に池淵至(48 ・米)が加わり、3 回目の四王寺山は降 雨で途中まで。4 回目の4 年11 月22 日の篠栗町・若杉山 からは右田諄一郎(32 ・米)、鳥井本忠信(60 ・商)、そ して東京から転入した久保田恭子(45 ・米)が加わり、 にぎやかさを増した。

 日だまりの山頂で久保田が「東京 では普通」だと、アルコールをサービスした。これは初体験。その美味なること。これがのちのち、楽しさを増すと共に問題も起こし、たびたびアルコール禁止令が出た。しかし、今は適量が守られている。

第5 回は、5 年6 月6 日の那珂川町・九千部山。これ からは、藤村喜三(32 ・商)ら多数が参加した。この藤村と高橋が両輪となって、その後の登山部の隆盛を支え ている。

第6 回、福岡市西区の飯盛山からは、応援団出身、鳥 井本のリードで校歌を斉唱することにした。5 年11 月28 日の秋月、古処山山頂での校歌合唱の模様は、写真とと もに同窓会報に載せられ、全国の校友に知らされた。

登山の楽しみのひとつに、花との出合いがある。6 年 3 月20 日、前原市・井原山に登る途中、湧き出るように 芽生えた草があった。キツネノカミソリだ。開花期は見 事だろうと、夏、再度、登ることにした。偵察隊が二度 調査登山し、8 月7 日、大集合をかけた。黄色い満開の 花が谷々を埋め尽くし、木陰も、この群落で明るくさえ 感じられるほどの怪しい幻想の世界に、皆々、酔いしれた。

7 年には、佐賀県境・背振山のミツバツツジを堪能し た。やはり偵察隊を何度も繰り出し、4 月30 日が最高の 花期だろうと、大号令をかけた。当日、バンという外人 夫妻を含めて17 人が、この美しい花のアーチを楽しんだ。

8 年8 月16 日、参加者9 人が富士吉田の五合目から夜 を徹して登りきり、富士山頂で、ご来光を拝んだ。

9 年8 月8 日には、四国・石槌山に7 人が挑戦。

憧れの三郡縦走は、三つの郡にまたがる峻嶺・若杉山、 砥石山、三郡山、宝満山の4 山を1 日で踏破するという 難事である。これを9 年5 月31 日と10 年4 月19 日に企画 し、いずれも成功させた。

低山から出発した登山部の連中も、脚力、体力に自信 をつけると、より険しく、より名のある山に憧憬する。 これに対し、女性達は「山は楽しむもの。山路の可憐な 草花を、いとおしみつつ、その名前を知り、花期に再会 を求めて登り来たる」の風情を愛した。

この調整の中から「野あるき野の花の会」が生まれた。 女性グループが、草花の名を図鑑で検索しつつ、その識 別力を養い始めたが、識別力は、あいまい、かつ、遅々 として進まず、結局、森信一郎が福岡植物の会に入会し、 植物学者と共に山に入り、力をつけることになった。

これを踏まえて、10 年2 月22 日に、「久留米市の歴史 ハイクと植物探索の会」、同年4 月29 日には「黒田侯狩 り場から黒田侯別邸(友泉亭)までの植物観察」を企画。 それぞれ下英雄支部長(34 ・商)を含め20 人の参加で30 種識別。15 人の参加で35 種識別の成果を得た。

「登山」「野あるき」の会とも、それぞれ会員40 人を 擁し、現在の代表世話人は、阿部良毅(32 ・商)である。

登山2

登山3


◎「女性の集い」

平成7 年、同窓会本部から「女子入学生が男子入学生 数を上回った」と知らされ、支部役員達に動揺が走った。 それにしても、支部総会出席者に占める女性の数は極端 に少ない。

この年から全国女性会議が開催されるようになり、7 年9 月14 日の会議には舩越妙子(51 ・米)、地頭薗智恵 (62 ・商)、高崎昌代(H 元・英文)を、8 年9 月14 日は 舩越、地頭薗、大戸和代(62 ・米)、9 年9 月20 日は舩 越、岩波敦子(45 ・米)、甲斐まり子(51 ・英文)を派 遣した。

これを受けて、支部でも女性だけで集まろうというこ とになり、8 年8 月25 日、大名町のシエ・フランスとい うしゃれたレストランに女性14 人、藤井同窓会会長、森 支部長が集い、第1 回福岡支部女性会議を開催した。ま ずは、相互信頼と親睦がその日の目的であった。

第2 回は、9 年9 月28 日、ホテル・ニューオータニの 大観苑で行い、藤井会長、河村尚二元支部長(26 ・米) ほか23 人が集まった。アメリカ文化センター副館長の花 田早苗(40 ・米)の卓話「なん歳からでもチャレンジし て納得のいく生き方を」を中心に、それぞれが、自分の 生き方を述べるという意義ある会議だった。これら数々 の会議が実践され、女性部「野あるき野の花の会」へと 進展し、支部総会にもさらなる女性の数を見ることとなった。


◎「英語の会」

学窓を離れて、幾歳月。だが、この語学力を維持し向 上させるために、一部の人達がひそかに努力しているこ とが判明した。しかし、独りでは、挫折、挑戦、挫折の 繰り返しだ。これら同志を糾合し、この勉強を永続させ ることも意義あることだ。

当時の支部長は藤井健一。森副支部長と共に、ビル街 を歩き回った。やっと岩田屋新館食堂の「季の花」の別 室は、何人かが食事を取れば、室料無料と分かり、早速、 予約をとった。

6 年3 月17 日、藤野昇(26 ・米)を含め13 人が集まり、 今後の方針を協議した。毎月第3 木曜日に集まり、毎回、 リーダーを決め、そのリードのもとで勉強を進めること にした。

4 月21 日が最初の勉強会となった。リーダーが持ち寄 った英字紙、英雑誌などを翻訳しあった。 7 月21 日、藤井健一は「日本の友、ダニー氏を訪問」 というアメリカ・ボストンの新聞に若き日の自分の写真 の載ったのをコピーして訳した。11 月17 日、舩越妙子は、 テープレコーダーを持参し、ナチュラルスピードの英会 話を楽しもうと企画した。これを境に、外人のネイティ ブな会話を聞きたいとの要望が高まり、外人探しが始ま った。

7 年3 月16 日、最初の外人はDave Pite だ。4 月20 日 から11 月16 日まで、Van Mclntire が来てくれた。だが、 外人はビザの関係ですぐ帰国する。次を探すのが大変で ある。

幸い、舩越は春日市議会議員だ。英語力を武器に多数 の外人知己を持っている。カナダ、アメリカ、オーストラリア、フィリピン人など、まあ、よく連れてくる。 8 年5 月16 日のNatalie Stepanenko というロシアの血を 引く若き女性は、息をのむほど美人だった。 外人探しのため、しばしば中断したものの、この会も、 既に40 回を越えている。


◎「ゴルフの会」

ゴルフコンペの歴史は随分古いが、最盛期は昭和50 年 代で、年に4 、5 回は開かれ、51 年10 月26 日の、その年 の3 回目のコンペなどは、今は亡き奥村教授を交えた19 人が玄海ゴルフクラブで汗をかき、そのまま、ぞろぞろ と福岡支部総会になだれ込んだ。

このコンペは昭和の終わりごろから「北斗会」と名乗 るようになり、福岡カントリークラブ和白コースのシン グルプレーヤー・国房靖史(43 ・商)が幹事をするよう になってからは、質の高さを誇るようになった。

平成5 年、地頭薗智恵(62 ・商)が若木ゴルフ倶楽部 福岡支店に勤務しだしてからは、彼女の設営でたびたび 佐賀県武雄市の若木GC に遠征した。

8 年4 月4 日の一木会に、福岡県庁支部長の香月均 (39 ・商)が初出席し、県庁支部と福岡支部との融和、 連帯を訴え、その後、よく県議会議員や同僚OB を誘っ てきては、一木会員との友好を保つことに努力した。そ して、この席で、両支部の親善ゴルフコンペの話が浮上 した。

9 年2 月20 日、第1 回合同ゴルフコンペが若木ゴルフ 倶楽部で開催され、藤井健一会長、香月均、藤田茂令県 議、(県議会議長)それに後日、同窓会会長となる江口博明(34 ・商)ら20 人が参加した。

第2 回合同ゴルフコンペは、9 年9 月20 日、若宮ゴル フクラブで12 人、第3 回は、10 年4 月24 日、福岡カント リー倶楽部和白コースで12 人が参加し、それぞれ両支部 コンペの間隙を縫って開催されている。

現在の北斗会幹事は、永淵遼一(36 ・商)、県庁支部 幹事は脊戸俊介(49 ・商)である。

森 信一郎(32 ・米)