北九州市立大学同窓会

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支部組織

神奈川支部

第29回神奈川ハイク
―紫陽花と古刹を訪ねて 鎌倉を歩く―

 第29回の神奈川ハイクは、『紫陽花の古都?明月院から成就院 へ』と題して6月19日に鎌倉を散策した。この季節の休日には、 鎌倉は行楽客でごったがえす。混雑を少しでも避け、ゆっくりと 豊かな緑や紫陽花を楽しみ旧跡を訪ねるために、今回は初めて 平日に実施した。
 初参加の近藤善昭氏(S46・経営)を含め14名が北鎌倉駅に集 合。【楽しく役に立つ同窓会】をスローガンにしている神奈川支 部が、自ら作成した参考資料で、まず『源頼朝と鎌倉時代』を簡単 に復習した後、別名アジサイ寺とも呼ばれる「明月院」へ向かっ た。平日とはいえさすがに人出は多いが、すがすがしいライトブ ルーの紫陽花が海原のように広がり、周りの鮮やかな緑の木々 と相まって心を癒してくれる。院内には、第8代執権北条時宗の 墓所や、鎌倉最大の「やぐら」(鎌倉独特の、山の岩肌をくりぬい て作られた墓所)の洞内には羅漢像や薬師如来の浮彫りが有り、 荘厳な雰囲気が感じられる。
 当時、鎌倉から武蔵方面へ通じた亀ヶ谷切通しを越え、頼朝の 娘・大姫の守り本尊だった地蔵菩薩像がある「岩船地蔵堂」に到 着。菩薩像を拝みつつ、若くして亡くなった大姫の悲しい生涯を ちょっぴり偲んだ。
 その後、頼朝が没した1200年に北条政子が創建した「寿福寺」 へ。
 鎌倉五山の3番目に位置しており、総門から山門に伸びる長 い参道は柱石が真ん中に敷かれ、両脇の老樹の根元に苔が張り 付いて落ち着いた景観である。
 仏殿裏の墓所は、やぐら群で囲まれており、その中には北条政 子の墓と言われるやぐらや、その隣には源実朝のやぐらもある。
 一転賑やかな小町通りで昼食の後は、のどかな小型の通称江 ノ電に揺られて海の見える稲村ケ埼へ。七里ヶ浜の遠方には江 ノ島が見え、サーファーやヨットもちらほら。歴史的にはこの辺 りは鎌倉幕府終焉の古戦場であり、新田義貞軍勢が鎌倉攻めの 際に、東の山並みが自然の要塞となり難渋したと言われている。 時に1333年のことであった。
 この山並みにある「極楽寺坂切通し」に入り、頂付近にある「成 就院」へ。3代執権北条泰時が1219年に創建した寺である。弓の ような曲線を描く由比ガ浜を見下ろす階段の両側には、薄青、薄 紫、濃紫、白や桃色の紫陽花が咲き乱れて圧巻である。先ほど少 し降った雨のせいで、雨露が花や葉に残り、その色が一段と鮮や かに見えた。紫陽花には雨がよく似合う。
 鎌倉幕府成立前から有り、鬱蒼とした杉の大木等に囲まれた 御霊神社を経由して今日の最終目的地の「光則寺」へ到着。この 寺は5代執権北条時頼の重臣だった宿谷行時・光則の屋敷跡に、 日蓮の高弟・日朗上人を迎えて創建された。訪れる人は少ない が、別名花の寺とも呼ばれ、四季折々の花を楽しむことが出来 る。この季節、紫陽花や菖蒲が我々を迎えてくれた。そして今回 も目的は、歴史的な「土牢」を見学する事でもあった。
 1260年日蓮上人は、宿谷行時の手を経て「立正安国論」を執権 時頼に手渡そうと試みた。しかし、日蓮は幾多の迫害を受け1271 年佐渡島へ流罪。弟子の日朗は光則に預けられ、屋敷内に造られ た土牢に幽閉された。1272年に日蓮は流罪を許され、光則は日蓮 宗に帰依し、日朗上人が光則寺を創建した。
 その土牢は、本堂裏の岩の山肌をくり抜き、正面は格子状の太 い角材、高さ幅とも約6m奥行きが約7〜8mはあろう。外気と 接する薄暗い冷たい土牢の中で、日朗上人は一心にお経を唱え る毎日であったのだろうか。
 光則寺を出ると、長谷寺や鎌倉大仏を訪れた観光客で、通りは 賑やかさが溢れていた。
 たっぷりと紫陽花を堪能し、時には潮風に吹かれ、そして ちょっぴり鎌倉時代の歴史に触れた後は、鎌倉駅前の神奈川支 部御用達のいつもの店で喉を潤しつつ歓談した。