北九州市立大学同窓会

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支部組織

関東支部

三水会場の変遷

毎月第3 水曜日の昼の食事会は、夜のくつろぎの懇親会「三水会」に変身した。前者が仕事の休憩時間であったのに対して、後者は仕事を終えた後のくつろぎと再生の時間である。この自由で開放的な空間から、支部のスタッフの多くが輩出したのもうなずけよう。しかしながら、三水会場の店が常に安定していたわけではない。閉鎖したり、廃業したりして、三水会はその度に右往左往 した。その曲折をざっと振り返ってみよう。

(1)中国料理と炉ばた焼きの店「チボリ苑有楽」
昭和52 年10 月、「三水会」会場は、国鉄・新橋駅前の「浦島」店から有楽町駅前、有楽町ビル地下一階の「チボリ苑有楽」店に変わった。何よりも昼の短時間から、 夜長の親睦会に変貌したことが画期的であった。

仕事を終えた同窓生は、たまりかねたように押し寄せ た。急増に対応して、店は「北九大・三水会」の看板を出し、店内にそのコーナーを設けた。

同窓生の支部に対する期待の大きさに驚いた白石は、 次の年から、支部総会のない隔年の2 月の第一土曜日に、三水会場の店を借り切って新年会を開くことにした。そして、翌年、第1 回目の新年会が開催された。

「チボリ苑有楽」店で開かれた新年会は次の通りである。各々の新年会をのぞいてみよう。

昭和53 年2 月 第1 回新春会出席者60 余人。
組織部長に小山松壽・副支部長(33 ・ 米)、事業部長は木戸重孝・副支部長(34 ・商)が就任。白石忠良支部長が支部のたまり場「三水会」の会場を大衆割烹店「浦島」から居酒屋「チボリ苑有楽」にすると 宣言。

昭和55 年2 月 第2 回新春パーティー
町島元喜(33 ・商)が呼んだ生バンド演奏に合わせて、 のど自慢を競う。70 人が一通り歌い終えるのに夜の8 時を回った。

昭和57 年2 月第3 回新春パーティー
午後3 時から夜9 時まで第一部と第二部のロングラン。総勢百数十人。司会・冨迫昭吉(50 ・国文)、実行委員長・山下克彦(42 ・商)。大分県、西国東・高田・ 宇佐支部から坂本征四郎(38 ・米)が馳せ参じる。

昭和59 年2 月第4 回新春パーティー
司会を児森進作(42 ・商)、実行委員長を山下克彦(42 ・商)が務める。久保田恭子・婦人部長(45 ・米) 案のジャンケン勝ち抜き景品争奪ゲームで出席者80 余人一喜一優。

昭和61 年2 月第5 回新春パーティー
実行委員長の鈴木克典(46 ・営)、実行委員の近藤正雄(54 ・営)、小園豊(54 ・営)、高橋洋一(56 ・営)の 4 人が大奮闘。阿部博・総務部長(35 ・商)の閉会の辞。出席者数80 余人。

昭和63 年2 月第6 回新春パーティー
出席者80 余人。午後5 時開会。実行委員長・鈴木克典 (46 ・営)、進行役は吉野宏(41 ・米)と久保田恭子(45 ・米)。「懐かしい北九州は……今」と題して、北九 州市の地図と写真を壁に掲げる。会場の奥座敷で昭和50 年卒以降のヤング20 数人が交歓会を開く。

このころ、飲食業界は目の届かないところで激しい客の争奪戦を展開していた。平成元年12 月、競争不利とみた「チボリ苑有楽」店は、その営業権を他店に譲り渡した。

(2)お洒落居酒屋「華蓮」
「チボリ苑有楽」店の営業権を買い取ったのは、お洒落居酒屋の店「華蓮」であった。そして翌年の1 月に新装開店した。「三水会」は、同一場所で通常通り開かれた。ただし、「華蓮」における新年会はたった2 回であ った。

関西から転勤してきた楠本正孝(40 ・米)が初参加。 そして、歴代の4 支部長、初代・赤松孝男(25 ・専中)、 2 代・川嶋理乍(26 ・専米)、2 代目支部長代行・齋藤 哲哉(35 ・商)、3 代・阿部昭夫(28 ・米)、4 代・白石忠良(31 ・米)が一堂に会した。出席者53 人。

平成4 年2 月第8 回新春パーティー
積雪で交通は大混乱、1 時間遅れで午後4 時に開会。 昨年卒業した石橋幸司(済)、李進香(済)、岩本修(営)、 藤嶋美行(営)の4 人が出席。新婚の岩井屋敏彦(57 ・ 英文)は新妻同伴で出席。受付にアルバイト3 人を雇う。出席者は60 余人。

(3)「とんかつ有楽(うらく)」
平成5 年12 月の三水会の日、「華蓮」の店主が「今月で店じまいする」と言い出した。不意をつかれて筆者は周章狼狽した。支部長になっていた筆者は、店主を激しく叱った。なぜなら、来月からの新会場を会員に通知する時間がなかったからである。

臨時会場であれ仮設会場であれ、とにかく来月の三水会場を探さなければならない。筆者は店主を引き連れて三軒隣の店、「とんかつ有楽」を訪ねた。そして、取締役に事情を話して協力を要請、了承を取り付けた。

お陰で、その次の月から事情を知らずに来た同窓生が、 さほど迷うことなく三軒隣の新しい三水会場、「とんかつ有楽」店へ集まった。

しかしながら、この店もまた、激動する時代の流れから取り残される運命にあった。週休2 日制が定着して客数は減少、しかもバブル景気がはじけて、飲食業界は弱肉強食の淘汰の時代を迎えていたのである。「とんかつ有楽」店で開いた新年会は、「華蓮」店と同じくわずか2 回であった。

平成6 年2 月第9 回新春パーティー
利重盛久(35 ・商)は北九州市の観光ポスターを持参、パンフレットを配布して北九州市ルネッサンス大使の役を担う。昨年7 月の総選挙で大分2 区から立候補し、トップ当選した横光克彦・衆議院議員(42 ・米)が出席。 民謡歌手・三宅良二(62 ・済)は豪快な津軽三味線を奏で、津軽民謡「津軽よされ節」を唄って会を引き締めた。

平成8 年2 月第10 回新春パーティー
女性のアイデアに基づく女性主導の新年会に76 人(うち女性21 人)が集う。同窓会本部から廣木嘉子・副会長 (28 ・中、旧姓;内藤)が応援に駆けつける。

(4)そば処「竹むら」
飲食店は営業権の譲渡や店じまいを、客になぜ早く予告しないのか。思うに、客を逃さないためにギリギリの日まで黙秘するのかもしれない。

「とんかつ有楽」の支配人も例外でなかった。平成9 年12 月の三水会で、彼は「今月で店じまいする」と、ばつが悪そうに切り出した。

筆者はとっさに「来月の三水会場と翌々月の新年会をどうするか」と思った。そして、にわかに動揺した。これを見た支配人は、間髪いれず、「同じグループの店を紹介する」と言った。ただちに紹介先へ同行した。そこは日本そば屋であった。

そば処「竹むら」店は、「とんかつ有楽」店と同一フロアにあるが、地下の一区画のコーナーとコーナーに位置して遠く隔たっている。したがって、元の場所に「三水会」会場の変更地図を掲示しないと、常連でさえ来れそうにない。

やむなく翌年から会場変更を掲示して、そば屋を三水会の臨時会場にした。ところが、その店のつまみはまずく、空間は狭くて窮屈、しかも騒々しいと評判がよろしくない。なかでも店員の横柄な接客態度にどうしても我慢できなかった。

(5)レストラン「ブリアン」
平成10 年7 月、岡本ヒロミ・婦人部長(45 ・米、在任期間1989 〜2000 )と一緒に、彼女の勤務先が利用するという店を訪ねた。店長は「客の多い12 月だけは遠慮してくれ」と言った。しかし、12 月だけ「三水会」を開かないという訳にはいかない。しかたなく、一般の客として利用することで妥協した。

ところが、その年の9 月以降、三水会出席者が毎月25 〜35 人の大勢で押し寄せると、ブリアンの店長の態度は 「12 月も三水会を開いて良い」。否、「開いて欲しい」という態度にがらっと変わった。この店もまた不景気の影響で客足が遠のいていたのである。

「とんかつ有楽」の店じまい、というハプニングが生じて、平成10 年2 月開催予定の新春パーティーは、やむなく中止になった。実に残念なことである。

同年9 月から、フランス料理店「ブリアン」で三水会を開催することになった。会場が有楽町ビル地下1 階から新有楽町ビル13 階へ変わっただけではない。おじさんたちの好む居酒屋風の店から、女性も好むワインとフラ ンス料理のレストランへがらりと変貌したのである。

三水会の新会場「ブリアン」は好評であった。その年の12 月、一度は出席してみようという同窓生がどっと押し寄せた。出席者45 人という数字は、月例懇親会「三水会」史上最多と思われる。45 人の出席者を眺めて見よう

森隆範(39 ・商)、福井義知(33 ・商)、大羽登(33 ・ 中)、松島めぐみ(60 ・中)、大谷章助(44 ・営)、三宅良二(62 ・済)、篠崎(佐々木)史郎(53 ・法)、下村圭 佑(45 ・営)、小園豊(54 ・営)、吉野宏(41 ・米)、杉本正彦(35 ・米)、占部勝美(31 ・米)、足代守訓(32 ・ 米)、大中勝美(42 ・米)、園田定義(31 ・米)、矢部一栄(ゲスト)、児森進作(42 ・商)、植村宏(44 ・米)、 吉原保(38 ・商)、利重盛久(35 ・商)、織田英雄(39 ・ 商)、手島政俊(45 ・英文)、村田(高森)千賀子(44 ・ 米)、橋田(椎野)喜恵(40 ・米)、金井(長谷川)勝代 (42 ・中)、森光盡一郎(49 ・中)、中島大(47 ・営)、野 田峻司(41 ・商)、川久保(木下)ミチエ(45 ・米2 )、 佐藤顕(38 ・商)、林光王(52 ・米2 )、玉置晴之(38 ・ 米)、山田俊教(39 ・商)、豊田(賀屋)美根子(4 1 ・米)、 赤間晋治(40 ・商)、横尾和幸(38 ・米)、川野幣夫 (38 ・商)、藤田成男(36 ・商)、徳村義昭(38 ・中)、白石忠良(31 ・米)、白石(是枝)絹子(31 ・米)、古賀是文(32 ・米)、梶沼英雄(25 ・専米)、相良宗利(32 ・米)、 小西孝蔵(38 ・中)。

翌11 年12 月、「三水会」の出席者34 人と比較して、45 人がいかに多かったかが分かる。そして、平成12 年2 月、 第11 回新春パーティーが、三水会場の「ブリアン」で開催された。そのときの様子を、三水会ニューズ66 号(2000 年2 月16 日発行)は次のように伝える。

「建国記念日の祝日と日曜日のはざま、土曜日(2 月 12 日)の正午から、JR 有楽町駅前、新有楽町ビル13 階のレストラン『ブリアン』で、同窓会東京支部主催 『2000 年、新年の集い』が開催された。この日は、ぽかぽか陽気に恵まれて、皇居は春霞にもやって見えた。集いは、吉野宏氏(41 ・米)の司会で正午過ぎに開会。大中勝美・支部長(42 ・米)は、三連休の中日を割いて出席した同窓生と来賓の4 人の歴代支部長(赤松孝男 〔25 ・専中〕、齋藤哲哉〔35 ・商〕、阿部昭夫〔28 ・米〕、 白石忠良〔31 ・米〕)に謝辞を述べた。

『新年の集い』は、 2 時半にお開きになった。ところが誰一人帰ろうとしな い。機転を利かして大中支部長は、立食パーティールームから、同一フロアの座席ルームへ移って二次会を開く ことを提案。満場一致の賛同を得て直ちに別の空間に移動した。コーヒー一杯で済ますつもりは、誰ともなしに、いつの間にかビール、ウイスキー、そして、つまみ類を追加注文するに及んで一次会よりも一層盛り上がる始末。結局、会場を出たのは午後5 時過ぎであった。本年の新年会では、皮肉なことに『二次会がよかった』とい う同志が多数を占めた。

『新年の集い』に出席した方々は次の通り。

赤松孝男(25 ・専中)、阿部昭夫(28 ・米)、齋藤哲哉 (35 ・商)、白石忠良(31 ・米)、白石(是枝)絹子 (31 ・米)、豊田(賀屋)美根子(41 ・米)、金井(長谷川)勝代(42 ・中)、伊地知(鎮守)洋子(46 ・国文)、 竹内(久松)優子(46 ・国文)、彦由久美子(46 ・国文)、 中村(真新)英子(50 ・国文)、林順子(林鶴王・47 ・ 米夫人)、金春愛(崔明吉・夫人)、園田定義(31 ・米)、 相良宗利(32 ・米)、古賀是文(32 ・米)、宮崎朗(32 ・ 米)、利重盛久(35 ・商)、小西孝蔵(38 ・中)、山田俊教(39 ・商)、河地孝広(40 ・商)、吉野宏(41 ・商)、 村田重章(42 ・米)、児森進作(42 ・商)、宮本誠一 (42 ・米)、大中勝美(42 ・米)、稲村忠幸(44 ・営)、中島大(47 ・営)、児玉正三(49 ・米)、岩井屋敏彦(57 ・ 英文)、崔明吉(H11 ・営情)。