北九州市立大学同窓会

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支部組織

佐賀支部

支部の誕生と歩み

 佐賀支部は昭和37 年8 月、当時、小城町立小城中学校に勤務していた今泉孝(30 ・米)が佐賀市成章中学校に勤務していた川浪良三(旧姓野 田、25 ・専米)を訪ね、年ごとに増えてくる県内同窓生の親睦を図り、連帯の絆を強めようと支部同窓会の発足を促した。川浪は県内同窓生の中では最年長者であり、佐賀市立城南中学校勤務の玉澤豊(旧姓瀬田、28 ・短)にはかって支部発会を8 月10 日、佐賀市郊外の川上川畔の楊柳亭別館で行った。出席者は10 人。同窓会本部から守谷隆三郎幹事を招き、校歌、逍遥歌を合唱して、青春時代の良き日を回想した。この日、支部結成を決議して、支部長に川浪良三、副支部長に玉澤豊、幹事長に今泉孝を選出した。当時の県内居住の同窓生は中学校、高等学校の 教師をしている者が多かった。学校職員録から住所を探し出して案内状を送ったので参加者のほとんどが教員だった。

第2回は39 年9 月23 日、登山を兼ねて天山(標高 1,046m )山頂で行ったが、6 人の参加者があった。

第3 回は41 年7 月29 日、佐賀市の議員クラブで行った。 参加者は16 人。本部から守谷、新井両氏が来てくれた。

第4 回は42 年1 月6 日、佐賀市の葉がくれ荘で19 人の 参加者があった。大学から大隈英夫先生、本部から藤木幹事が来訪された。大隈先生は旧制佐賀高等学校で学ばれたことがあり、佐賀のことをよく知っておられた。佐賀出身の学生は先生に可愛がってもらったものだ。市川団十郎ばりの大きな目玉をぎょろつかせて、にこやかに話されていたのが目に焼きついている。来訪された時は真冬であったが、清水の滝へ先生を案内した。帰りに名物の鯉のあらいを食べてもらったが、とてもうまいと喜んでおられた。

第5 回は42 年10 月29 日、母校の開学20 周年を記念して、 有志6 人が天山に登り、「北九州大学同窓会佐賀支部登山記念」と書いた標柱を山頂に立てた。

第6 回は44 年1 月5 日、葉がくれ荘で、帰省中の在学生を交え17 人で新年を祝った。

第7 回は45 年1 月4 日、熊川温泉の新屋旅館に16 人が集まって太田実(30 ・米)のハワイ大学留学報告を聞いた。

第8 回は46 年1 月5 日、佐賀市の明治屋に13 人が集合。二次会はクラブ「蟻」を借り切って盛り上がった。

第9 回は47 年1 月6 日、筑後川を縁先から見下ろせる諸富町早津江の川浪支部長宅で、本部から結田広報部長を招き、17 人が参集した。会のクライマックスで、だれかが裸で踊り出す始末であった。

第10 回は48 年1 月6 日、多久市のそば屋「太平庵」に 14 人が参加した。

第11 回は49 年4 月28 日、小城町の春日屋で開いた。14 人が参加した。

第12 回は51 年4 月18 日、佐賀市の議員クラブで開催。本部から児玉総務部長、西島組織部長(伊万里高校卒)が参加、支部組織を強化して同窓会創立25 周年記念事業へ積極的に参加することを申し合わせた。この総会で14 年間、佐賀支部をリードしてきた川浪支部長が引退した。彼は毎年、精力的に総会を開いたが、それだけ母校への思い入れが深かった。12 回の総会に欠かさず参加した者も支部長に劣らず、母校を愛する者たちであった。

支部では、総会以外に母校の先生達を囲んで研修会を 行った。例えば、河上道夫先生は中学校で使用する英語教科書(New Horizon )の執筆者の一人になっておられたので、42 年7 月26 日、県英語教育研究会の招きで佐賀へ来られた機会をとらえ、4 人の有志が先生を古湯温泉へ案内して歓談した。その後、河上先生は数回、佐賀を訪ねられ、中学校で英語教員をしている同窓生と英語教育について研究懇談会を行った。母校を卒業してからも河上先生に教えていただいたことは英語教員をしている者の冥利に尽きるものがあった。中学校、高等学校で英 語教員をしている同窓生は県下で顕著な教育活動を行 い、高く評価されるようになった。

さて、第12 回総会で、2 代目支部長に今泉孝を、副支 部長に太田実、幹事長に真子和治(32 ・米)、幹事(会 計)に村田英次(31 ・米)を選出した。今泉支部長は教 職についたものの、教職員組合の専従活動をした期間が長く、支部長になった時も組合幹部になっており、同窓会活動の企画も副支部長他に任せることが多かった。し かし、補佐役も支部長と十分な連携が取れず総会開催は途切れがちであった。しびれを切らした有志の働きで55 年の夏、嬉野温泉で一泊して旧交を温めた。今泉支部長得意の裸踊りが出て、久しぶりに交わす杯のピッチもあがった。これが第13 回総会になる。13 人が参加した。その後、しばらくの間、支部活動に停滞期があった。今泉は県教職員組合委員長になり、佐賀県内の労働組合運動の牽引車になった。

昭和61 年11 月15 日、佐賀駅前の東急インで、第14 回総会を開くことになった。参加者21 人。太田、村田、香田繁(30 ・米)、真子らが案内状を作り、参加を呼びかけ、かつてない多数の同窓生が集まってくれた。大学から浦野先生、本部からは河野氏が来訪された。

62 年11 月14 日、佐賀市のパル21で第15 回総会を開いた。 この回では、26 人の参加を見た。「パル21 」には毛利孝美(58 ・米)が勤務していて、同窓会には便宜を図ってくれた。この会には、大学から服部昌之先生、本部から河野氏を迎えた。川浪支部長時代は教職関係者が多かったが、第13 回総会あたりから商学部やその他の学部卒業生が増えてきて、またさまざまな仕事についている者が集まる同窓会本来の姿になったと思う。

第16 回総会は平成5 年9 月15 日、パル21で開いた。参 加者は17 人。かろうじて同窓会の灯火を消さないようにと村田、真子が呼びかけた。今泉支部長はこの時期が一番多忙だったように思われる。消えかかろうとする支部活動にカツを入れるべく本部から久保田組織部長が再三支部に連絡をいれて平成9 年2 月1 日、通算17 回目の支部総会を開く段取りができた。今泉支部長は健康を害し入院中であり、村田、香田、真子が取り仕切った。佐賀市の若楠会館に25 人の同窓生が集まり、本部から藤井会長、久保田組織部長が来訪された。若い会員や、二組の同窓生カップルの姿も見えた。槙夫妻、団野夫妻である。 この総会で役員交替を行った。3 代目支部長に村田英次を、副支部長に川久保精祐(38 ・米2 )、幹事長に城島則明(43 ・米)、女性部長(副幹事長)に槙典子(48 ・中)を選出した。また、県内を4 つのブロックに分け、それぞれに世話人となる幹事を置くことにした。東部 (鳥栖市、三養基郡、神埼郡)、中央部(佐賀市、佐賀郡、 小城郡、多久市)、北部(唐津市、東松浦郡)、西部(武雄市、鹿島市、伊万里市、杵島郡、藤津郡、西松浦郡) がそれである。それぞれのブロックで有志の集まりがで きるようにブロック幹事に呼びかけをお願いしている。 この総会でかねてからの懸案であった支部規約を採択した。

伊万里市の供日祭り(トンテントン祭り)は全国的に有名である。この時期(10 月22 〜24 日)になると、町の人口が増えるのである。伊万里市居住の槙孝行(49 ・営)、 典子(女性部長)夫妻の尽力で、祭りの余韻が残っている平成9 年10 月25 日、伊万里湾で採れたうまい魚介に酒 量もあがり、12 人の参加者は時の経つのを忘れて歓談した。

また、第17 回総会後の二次会に行った小料理屋「登紀」 を支部会員のたまり場にしようと衆議一決し、以来、現在に至るまで月の第三土曜日の夜、同窓生がたむろしている。月並みな表現であるが、この会を「三土会」と呼んでいる。そこには専用のノートを置いて、来た者の落書き帳にしている。会員の連絡メモの役もしているのである。たまに珍しい顔も見えるが、常連が多い。おかみの郷土料理も口にあって、しばし楽しい語らいができる。 会員同士の情報交換の場所でもある。

第18 回総会は平成11 年1 月31 日、金立山麓の豊荘新館で行い、21 人の参加を得た。本部から岩井副会長が出席 した。この総会で、副支部長の川久保精祐が福岡県へ転出したので後任に一番ケ瀬誠行(34 ・商)を選出した。 一番ケ瀬は佐賀商業高校野球部が平成6 年夏の全国高校 野球選手権大会で見事全国制覇をした時の学校長。このことは県内同窓生にも知れわたり、彼を祝福した。今後の支部活動は彼の手腕に期待したい。