北九州市立大学同窓会

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支部組織

宇佐・高田支部

宇佐・高田支部のご案内

 宇佐・高田支部は大分県北部、六郷満山の国東半島の西、八幡神の総本社である宇佐神宮の足元、そして、日本三大温暖な気候帯の一つである瀬戸内海の周防灘に面し、山海の産物に恵まれたところにある。

 同窓生は、矢野数光(24 ・専米)、後藤美智也(25 ・ 専米)、久保政光(26 ・専米)を筆頭に140 余人で、この地域でさまざまな分野で活躍している。中でも誇りにしているのは国会議員を務めている横光克彦(42 ・米)であり、公務多忙のなか、支部総会には毎回出席、おかげで我々も国政の近くにいる気分になる。

 平成11 年度総会は、12 年2 月19 日に相良貞喜(34 ・商) の世話で、宇佐市大字川部「かんぽの郷・宇佐」で開かれ、開会の言葉、支部長・土屋正雄(34 ・米)のあいさつ、来賓(本部から齋藤忠和副会長、新井市郎幹事)のあいさつがあり、この中で同窓会創立50 周年にかかわる情勢や大学の現況等の話があり、議長を選出して議事に入った。

 活動報告、会計報告、役員改選、新支部長あいさつ、新役員紹介、横光議員のあいさつのあと懇親会に移り、はじめの言葉、祝儀の仕舞、乾杯、自己紹介、懇談(カラオケ等もあり盛会)、逍遥歌、校歌斉唱、万歳 三唱、おわりの言葉と続き、次回の再会を約して散会、 盛会な総会と懇親会を終えた。

 この宇佐・高田支部の前身には、1977 年、下村達美 (30 ・米)らが、大分、中津両支部の狭間にあって同窓会活動に参加出来ないということから、同窓会本部や中津支部(当時、矢野数光支部長)と話し合って誕生した国東・高田支部があり、その後、中学や高校教員の転勤により会員の異動がある中で、坂本征四郎(38 ・米)らの働きかけで宇佐市の会員が中津支部から合流し、現在に至ったようである。

 個人的になるが、顧みると、私は昭和25 年3 月、高校を卒業、向学心はあるが、学業成績は不十分。関東にあこがれていたが、貧しさと母1 人を残して郷里を離れられず、高3 の時に頼りにしていた英語科教師、片多嗣信先生はわずか1 カ月で福岡学芸大(小倉分校)に転出、当時、自宅近く在住の津田塾卒の先生から「語学なら北九大に」と勧められて、一浪して入学した。

 当時の北九大(卒業前年に大学の本館になった旧偕行社はBOQ = 独身将校寮)の校舎はすべて旧陸軍倉庫を改装・改築し たもので、中央に廊下、左右に30 〜60 人収容の教室、廊下には傘つきの電球がさがっていたものである。正門を入ると右手の建物には山内教授一家が住み、講堂、テニスコートを越えて本館、裏の北側に生物学教室、その北側に射撃場を備えた室内体育館、南に北斗寮、食堂(ただし、南寄りの一部で大半は空き空間で北西の隅に大浴場、この浴場は使われたことはなく寮生は町の銭湯を利用)、そうして運動場との間に2 階建ての教室棟、食堂の南に心理学教室・実習室、運動場の南側に東から倉庫、 北辰寮(1 階は物置で中央に階段があって左手が売店で、 右手が大部屋の寮、20 台ほどのベッドが南北の窓に沿って置かれ、冬には木製の火鉢が2 つ置かれていた)。

 さらに西側の建物には中国科の教授2世帯が住み、塀を隔てて南側には競馬場関係者の住宅や厩舎、運動場の東側には道路に沿って商学部が設置されたころ100 人余収容 できる平屋の2 棟が整備・改築され、その北端にウエートリフティングの練習場が新設され、後にアジア大会ではフライ級第3 位入賞の選手を送り出した。 運動場は旧陸軍の訓練場だったのか、一応は平地では あったが、あちこちに草が生え、さらに昔の建物の基礎 と思われる長方形の石があり、昭和26 年度の大分県人会はこの運動場に車座になって開かれた。

 先輩たちの学習への意気込みや、生活のために働いているたくましさを感じ、「大人だ!」と感心したものである。先輩の言葉 の中に「大分県生の座った跡には草も生えない」と聞い て、他の学生たちが我々をどう見ているか、どのように接してくれようとしているかを感じると同時に、変な優越感を持ったものである。後に運動場は第2種公認トラ ックを有するものとなり、昭和27 年からアンツーカーの上で体育祭を開くことが出来たのである。

 さて、昭和29 年3 月初め、春休みの前ごろ、北辰寮の北側の窓から下の地面で重量挙げ部員が鉄車輪のような道具で練習しているのに、ひやかしの声をかけると「先輩、挙げてみせて!」と言われ、挑戦すると50kgのバーベル(当時、私は米俵一俵・約17 貫800 =67kg を片手で肩まで挙げていたのに)が腰の高さまでは上がるが、胸の上まで上がらず冷や汗をかいたのがきっかけで入部。

 6 月に第1 回九州大会が開かれ、第5 回愛知国体バ ンタム級優勝者の服部氏(二部)に次いで2 位だったが、 服部氏が国体参加を辞退したため私が参加することになった。重量挙げ部は、前年の愛媛国体に続いて5 人が福岡県代表として北海道小樽市に遠征。当時往復運賃950 円、但し往きは臨時列車で72 時間、また青函連絡船は往きは十勝丸(船長から青いリンゴの差入れあり)、帰途は洞爺丸。残念ながら両船とも帰校して10 日余り後の台風で沈没した。

 しかし、これを機に「日本ウエートリフティング界に北九大あり」としたのは故美山豊教授や体育講師・森川先生(門司工高)の熱心なご指導のたまものである。美山教授の退官時にOB会が結成されたが、 事務局長のトラブルで現在は活動が休止し、大学の部活動も休止状態と聞いて残念至極である。

 昭和25 年に起こった朝鮮動乱には、小倉に駐留していた米軍第24 師団・約2 万余人が出動し、大きな打撃を受け、その犠牲者をとむらう白い十字架が足立山の西側のふもとにある。一方、激化する戦闘のため、さらに多くの米軍兵士が本国から送り出され、昭和26 年には大学の運動場でも基本的な分隊教育が行われているのを学窓から目にし、学生が体育時にソフトボール等をしていると、それに気を取られ他の分隊員にはぐれる兵士が見られ、すると指導官がやって来て「やさしく肩を叩いて」皆の隊列に戻るよう指示しているのを見ると、旧日本の小・ 中学校の教訓を体験している者には理解しがたい光景であった。

 こういう状況の中で小倉の街は米兵であふれ(大学の英会話講師の中にも米軍中佐夫人Mrs.Conclin がシャレた服装で教壇に立ち、大学は高い時給を払っていたようだ)、少し英会話が出来ればアルバイトに不自由せず、それにしても大学卒の公務員の初任給が月に4,000 〜 5,000 円のころに米軍の新兵が月に200 ドル(日本円にし て72,000 円)だったのでは日本男子がどんなに頑張っても当時の若い女性にはもてなかったであろう。

 戦争花嫁 や混血児がいても致し方なしか。それでも学生の中にはアルバイトで高給を手にして学生生活を楽しんだものも少なくないと聞いている。しかし、このブームも昭和29 年基地の縮小でだんだんと下火になっていったものである。

 昭和30 年に卒業した私は、出身地近くの中学校に勤務するようになり、学校周辺の若者たちに重量挙げの手ほどきをしたが、新採用のために日田郡へ、結婚して日田市へ。そして、昭和41 年の大分国体に備えることで日田林工高校へ、当時の日田市では藤陰高校では同級生の次郎丸君が吹奏楽部を指導、また、先輩の野原種明氏 (29 ・米)がバドミントンの種を播き、大きく花を咲かせていた。

 昭和43 年、母の病い等で出身地の宇佐に帰り、 中津工、四日市高、山香農高に勤務、この間に大分県で行われている県民体育大会に重量挙げ種目で参加する11 郡市のうちの6 郡市の選手にかかわり、県民体育大会の重量挙げの中に40 歳以上の部を作り、今でも現役選手として参加している。

 身体虚弱児だった少年のころは顔色が悪かったので「アオ」と言われ、中学入試では 1,200m走の800m でダウンしたのが、大学卒業後の勤務 地の町民体育大会200m走で最速、三段跳優勝、県体でも教職員バレーチームの一員となり、陸上年齢別リレー (20 代走者)で、後に30 代走者でも優勝、また、日田市 民体育大会では7 種目に出場し、英語教師であるだけでなく、体育面でも社会に貢献できた気がする。

 平成4 年 に定年退職してからも8 年間、非常勤講師として勤務するほか、世界マスターズ選手権大会にも参加し、1998 年、 ポートランドでは金メダルに浴し、毎年大会時にライバル等に再会するのも楽しみの一つである。今年のマスターズは国内18 回目、国際7 回目の参加になる。私は、この北九大で人生最大の喜びである「英語」と「ウエートリフティング」に出会った。

 平成12 年度の宇佐・高田支部の役員は次の通りである。

▽支部長土屋正雄(34 ・米)
▽副支部長 渡辺康男(30 ・米)、中島豊(30 ・米)
▽評議員 安部和正(33 ・商)
▽事務局長 相良貞喜(34 ・商)
▽役員 加来哲呂(33 ・中)、益永昊(35 ・米)、 松原恵子(58 ・国文)。

支部長 中島 豊(30 ・米)