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2022年10月29日 支部
神奈川支部第55回秋のJOY-HIKEのご案内

北九州市立大学同窓会 神奈川支部

第55回 秋のJOY-HIKEのご案内  

 

 

  朝夕めっきり冷え込む季節となりました。

 2年以上にわたって猛威を振るってきた新型コロナウイルスも、患者数が減少し

 てきたとはいえ、まだまだ終息には至ってはおらず、油断は出来ません。

 このような時期、JOY-HIKEは屋外であり、いわゆる《 三 密 》を避けること

 は出来ます。  そして、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もいよいよ佳境に

 入ってきましたね  今回は、大河ドラマにちなんだ場所を訪ねて歴史に触れ

ようという、題して【 紅葉の鎌倉と鎌倉殿の13人】です。

皆様の理解と興味を深めるためにも、簡単な参考資料を作成しました。

 

 6月の第54回JOY-HIKEでは、初めての参加者が2名、東京地区からも参加

者があり、楽しいひと時を過ごすことができました。 

コロナ禍が教えてくれたことの一つは【人との会話や交流がいかに必要か

 ということでしょう。

 初対面でも、同窓生というだけで、10年来の知り合いになれるものです。

 まだイベントに参加したことが無い方も、この機会に紅葉を眺めながら、体を

 動かして大いに気分転換を図りませんか    待つてま~す♪

 

 

   日 時 : 12月3日(土)  10:00 JR鎌倉駅西口公園 集合(T;トイレは駅構内)

   コース : 寿福寺 T ― 鶴岡八幡宮 T — 畠山重忠邸跡(石碑) — 大倉幕府跡(石碑)

― (公園で昼食) — 頼朝墓 ― 大江広元等墓 ― 文覚上人邸跡(石碑)

― 勝長寿院跡(石碑) ― 宝戒寺 T ― 東勝寺跡 ― 北条高時やぐら ―     

若宮大路幕府跡(石碑) - 宇都宮辻子幕府跡(石碑) ― 妙本寺 T ― 鎌倉駅 

           (ユックリと約3時間半のウオーキングです)

   記 事 : ①小雨でも実施します。

         ②昼食をご持参ください。

         ③当日の連絡 : 090-8507-9413(神﨑)です。

         ④参加希望者は、10月31日までにご連絡をお待ちしています。

         ④終了後、鎌倉駅前で希望者によるミニ懇親会の予定です。

           

            ☆☆ Another information ☆☆

 ❶ 第56回JOY-HIKEは、4月1日(土)の予定です。 ”❀ 桜を愛でる ❀”JOY-HIKEです

 ❷ 令和5年の新春懇親会を、1月21日(土)11:30から、桜木町ワシントンホテルで予定し

   ています。 実に3年ぶりです J    細部は、メールでお知らせします。

 

 

(第55回 JOY-HIKE 小資料)2022.12.03


武家政治の始まりと源頼朝 
頼朝の出現によって公家の世は武士の世へと移り変わった。 第55回JOY-HIKEの機会に、武家政治を確立した頼朝と鎌倉について、その航跡を簡単に復習してみよう。 チョット 役に立つよ~~! ● 頼朝は1147年源義朝の3男として生まれた。異母兄が2人居たが、母の家柄の高さ(熱田大宮司の娘)のため嫡男として育てられた。 頼朝は強運の持ち主である。13歳のときに父義朝と共に平治の乱に出陣する。
しかし平清盛に敗れ、頼朝は捕らえられたが、清盛の継母の池ノ禅尼により助命され伊豆へ流された。禅尼の死んだ息子に頼朝が生き写しだったと言うのが、命拾いの理由だったと言われている。

● 伊豆で20年に及ぶ流人生活を送り、1180年平家追討のため挙兵するが、6日後に石橋山で敗退する。
命からがら僅か7人で船により脱出、漂流中に三浦氏の水軍に奇跡的に出会い救出された。
この時から、頼朝の運は大きく開けていった。 九死に一生を得て房総半島に上陸すると、関東の豪族達が続々集まり大軍勢と成った。これは頼朝が関東独立をも掲げていたからである。 関東武士達は自分達の所領を西国に搾取される公家政治や、平家の横暴『平家にあらずんば人にあらず』に嫌気がさしていた。

● 頼朝はこれらの武士達を従え鎌倉入りし、鎌倉を東国の首都にすべく町造りを始めた。 その象徴が鶴岡八幡宮と若宮大路である。 この頃恋仲だった北条政子を鎌倉に迎え入れた。 その後平清盛は病死、1185年平家は壇ノ浦で滅びた。 その間に頼朝は武士政権の組織固めを着々と進め、関東は公約どおり独立した。
政権の要は、恩賞権を頼朝が持つことであった。 しかし京の朝廷は頼朝政権の揺さぶりのため、平家掃討の功績との恩賞を源義経に与えた。 頼朝は、組織を乱す者は弟であっても許さず、義経は追われる身となった。
頼朝の鉄の意志が鎌倉幕府を作り、1192年征夷大将軍となった。 が、7年後に没した。

● 頼朝の没後は、北条家を中心に権力争いが起こる。 頼朝の長男2代将軍頼家は、権力争いの渦中で謀殺され、その弟3代将軍実朝は、頼家の遺児公暁に殺される。 公暁も同様となり、源氏の血脈は途絶え、この後北条一族による執権政治が約100年続く。 
この北条氏も1333年の新田義貞の鎌倉攻めにより滅亡、ここに鎌倉時代は終わりを告げた。

 


寿福寺 : 頼朝が没した翌1200年、北条政子が栄西を迎えて創建した。当初は14の塔頭が有る大寺院で禅寺としては建長寺より53年古い。 頼朝の父義朝の屋敷が有った場所であり、頼朝が鎌倉入りした時、この地に館を構える予定だったという。
仏殿裏の墓所には、やぐら(鎌倉時代特有の横穴式墓所)群があり、そのなかには北条政子の墓と伝わる五輪塔が有り、その隣には源実朝の墓がある。
総門から三門への参道は、鎌倉屈指の景観。 桂敷きと呼ばれる敷石が真ん中に敷かれ、老樹の根元には苔が張り付いており、木漏れ日が落ちる真っ直ぐな参道は清々しい気分になる。
鶴岡八幡宮: 八幡神は、渡来人が奉じていたといわれる神で、奈良朝時代に東大寺の鎮守となった。
都が京に移ってから石清水八幡宮が造営され、伊勢神宮と並ぶ皇室の二大宗廟となった。
清和天皇を祖とする清和源氏は、この八幡神を氏神とし、頼朝の5代前の源頼義が、石清水八幡宮を勧進した。 
1180年鎌倉入りした頼朝は、政権の中心地として現在の地に移し、幕府の主要行事を行う武家政権の表舞台となった。
足利、豊臣、徳川も、武家政権の武神としてあがめ手厚く保護した。
畠山重忠邸(碑): 病弱だった頼朝の次女の世話をするために、ここに移住したと言われている。
大倉幕府跡(碑): 八幡宮の東側一帯は、頼朝が広大な屋敷等を構え、源氏3代にわたり侍所や公文所などの中
枢機関が置かれた武家政治発祥の地。
西御門、東御門などの地名に往時を偲ぶことが出来る。

 

頼朝の墓 : 53才で世を去ったのにちなみ、53段の石段を上がると、苔むした五輪塔が幕府の有った大倉の地を見下ろしている。 この地に頼朝の遺骸を安置した法華堂が有ったが、今はその跡を示す石碑が有る。
大江広元等の墓: 頼朝のブレーンとして活躍した広元の墓と、彼の息子の毛利季光の墓、頼朝の忠臣島津忠久が並んでいる(いずれも、やぐら)。 季光は、後の中国地方の大名 毛利氏の祖となり、薩摩藩の祖となった忠久、は頼朝の子とも言われている。
墓の有る階段下のやぐらには、三浦一族の墓が有る。 1247年の宝治合戦で北条時頼(義時の孫、5代執権)と戦った三浦泰村軍は、頼朝の法華堂に籠り、自害している。
また、階段下の平地には、北条義時の法華堂跡が有る。
文覚上人邸跡(碑): 文覚上人は出家前は武士であり、人妻に横恋慕の上、誤って殺してしまった過去がある。

伊豆にいた頼朝に挙兵を進言したり、鎌倉幕府創設期の名脇役であった。
浦賀の叶神社は、頼朝の挙兵が‟叶った”後の、文覚の創建である。
勝長寿院跡(碑) : 頼朝が父義朝の供養のため1185年建立した。源氏の菩提寺的な寺院でもあり、本堂、弥勒堂、 三重塔などを備えた大寺院であった。
宝戒寺 : 北条義時以来、鎌倉幕府滅亡(1333年)まで北条執権の屋敷が有った場所。 1335年、後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏が、北条氏の慰霊のため、そして人材を養成し修行させるための道場として建立した。
現在では、春は梅、秋は萩が美しく、花の寺とも言われている。 境内の無患子(むくろじ)の実を使った無患子お守りは「子が患わない」という縁起お守りである。
なお、本堂に有る毘沙門天像は、上がって近くで参拝できる。
北条高時やぐら : 1333年、新田義貞の鎌倉攻めで屋敷を焼かれ、高時は菩提寺の東勝寺に一族郎党800人と立てこもり、最後は自ら火を放った。
東勝寺跡地に残るやぐらには、その際滅亡した北条一族の墓があり、高時腹切りやぐらと呼ばれている。 北条氏終焉の地である。
若宮大路幕府跡(碑):3代執権北条泰時(義時の嫡男)は、北条政子の死後(1225年)御所を大倉から、若宮大路に近い宇都宮辻子へ移したが、12年後にはこの地へ移した。 宇都宮辻子幕府跡にも石碑がある。 
(鎌倉を訪れる人達も、この史実と石碑を知っている人は少ないと思われるが!?)
妙本寺 : 1260年日蓮宗で最初に建立された寺。 比企一族の墓がある。 
2代将軍源頼家は、母政子よりも、側室若狭局の父であり、頼家の乳母を母とする比企能員を頼みとしていた。 しかし比企氏の勢力拡大を恐れた北条一族は、頼家が病の床についた時に能員を謀殺し、比企一族を皆殺しにした。
その際、奇跡的に助かった比企能本が、能員の屋敷跡に、日蓮上人の高弟日朗を開祖に建立した。 日蓮宗では最初に建立されたお寺である。
若狭局が生んだ一幡は、わずか6歳で焼死。 慰霊の一幡袖塚や、一幡を失った若狭局の嘆きは激しく、蛇の化身となって北条氏を苦しめたので、その慰霊のため社が建てられたと言われる蛇苦止明神がある。
今でこそ、季節ごとに秋の紅葉、サクラ、カイドウ、シャガ、アジサイと、訪れる人の目を、そして周囲の静粛な山々は、訪れる人の心を癒してくれるものの、古くさかのぼれば、鎌倉時代の哀しい歴史の一コマが存在するのである。

 

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