北九州市立大学同窓会

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支部組織

北海道支部

支部の結成とその歩み

 九州から、北海道に本学の建学精神であるフロンティアスピリットを胸に秘めて渡ってきた卒業生は、田中一三(28 ・米)と小山順市(28 ・米、現在山口県宇部市在住)であった。2 人は、高校教師として北九大米英科の名を北海道英語界に高めた。その後、年が経つと共に卒業生が主に教員として来道し、また北海道出身者も帰るようになって、昭和31 年、江沢即心(31 ・米、現在山口 県下関市在住)が中心となって支部結成を呼びかけ、8 月に札幌市で第1 回の支部総会を開いた。その時、集まったのは、江沢即心、田中一三、小山順市、伊藤忠夫 (31 ・米、現在神奈川県相模原市在住)臼井均(35 ・米、 現支部長)、紺野博司(36 ・米)、為近久治(37 ・米)の 7 人であった。支部長に江沢即心、副支部長に小山順市を選出して支部活動をはじめた。支部情報を年6 回作成して回覧し、会費として月額200 円を徴収して慶弔規定に応じた支出をしてきた。当時は、同窓会本部の方も北 海道在住の卒業生の動静がつかめず、教職員を中心とした集まりであった。毎年、札幌で開くのは地方から来る者にとっては、負担になるので、地方在住者のところを回って開くようになった。

 昭和38 年には臼井と紺野のいる道南の大成村と奥尻島、そして江差町、松前町、函館市と移動した。席上、 若干の規約改正、役員改選、併せて本部総会に出席することを決めた。

 昭和39 年には、帯広の伊藤宅でひらき、席上、支部長に田中一三、事務局長に伊藤忠夫を選出した。その後、糠平温泉に1 泊し歓談した。

 昭和40 年は、今は、廃止になった定山渓鉄道で札幌の奥座敷といわれる定山渓温泉に出向いて開いた。昭和41 年には、為近のいる釧路に集まり、釧路から移動し、川湯温泉で遥か北国の温泉から母校を思い、快い気分で盃を酌み交わした。席上、役員改選を行い、支部長に伊藤忠夫、事務局長に為近久治を選出した。

 昭和42 年には道央に集まり、洞爺湖を遊覧し、登別温泉に泊まって楽しいひとときを過ごした。

 各地方の観光地を選んで支部総会を開いてきたが、道内をほぼ回ったので、昭和43 年は、礼文、利尻で開こうと決めた。参加者は、田中、為近の2 人であった。校歌、 逍遥歌を歌い、参加できなかった会員の分まで思い出話に花を咲かせたものだった。その頃、支部長の伊藤は帯広に、事務局長の為近は釧路にいたため、どうしても、 釧路か帯広で開く案内になったので、参加者は、ほとんどなく、活動休止の状態が数年続いた。

 昭和47 年の秋、為近が札幌に転勤になり、その後、札幌を中心に定山渓温泉で開くようになった。その頃になると、自衛隊に勤務する同窓生の消息も知れるようにな り、また、高度成長により、北海道に転勤になる民間会社の同窓生が多くなり、自営業の会員も増えてきた。一時は、30 人程度の参加者があった。この頃になると、年 1 回だけの支部総会では物足りなく、もう1 回集まろうということになり、新年会を成人式の後の土、日に開くようになった。新年会は、昭和60 年まで続いた。

 昭和52 年には、米原(故人)が副支部長に選ばれ、学長を北海道に招待しようではないかという声が上がってきた。そして、昭和54 年8 月、定山渓温泉で石原学長、本部から上田組織部長、永岡氏を迎えて支部総会が行われた。総勢16 人であった。当日、伊藤支部長は釧路地方を襲った台風のため飛行機が飛ばず、参加できなかったのが残念であった。10 年〜20 年間会わなかった「おやじさん」を迎えて会場は、盛り上がり、いやが上にも熱気が溢れんばかりだった。上田組織部長からは北海道支部会員の熱意と親しみをうらやましく思われた。この年に 事務局長に杉山秀之(37 ・米、現旭川在住)が選出された。その後、支部総会は、札幌と旭川周辺で行われるようになった。

 昭和60 年の支部総会で、事務局長は、杉山から嶋田紀久(40 ・米)に代わった。

 昭和61 年伊藤支部長、嶋田事務局長が北海道を離れることになり、支部長に米原善一郎(24 ・専中、AIU 保険代理店自営)、事務局長に川畑敏彦(39 ・米)が選任された。 米原は、活動資金の枯渇を嘆き、有志から1 万円ずつ集めろという。文句を言う同窓もいたが、7 〜8 万円が集まった。学長を招待しようとの考えがあったようだ。 校歌、逍遥歌のテープを出して、ダビングして支部の同窓生会員に送れということになり、夜な夜なダビングしているうち、ラジカセが寿命到来、新品を購入してダビング完了、送付し終わったことでほっとしたこともあった。

 米原は、旧海軍予科練出身で、とても元気のいい人だったが、平成2 年8 月10 日、胃癌のため64 歳の生涯を 閉じた。告別式に、田中、川畑が参列した。これより8 日後の8 月18 日、既に計画済みであった滝川地区江部乙町小出林檎園における野外バーベキュー総会を予定通り行うため、臼井、紺野、為近、川畑は、札幌から同じ車で江部乙に向かった。江部乙町内でバーベキューの材料調達をしたとき、所々で「タメチカ先生!!」、「タメチカ先生!!」という主婦、町民の声があり、昔、為近が当地で教鞭を取っていたことを知ると共に、地域に密着した教職同窓生の歴史を肌で感じ、全国転勤族の自分の半生と比べ、考えさせられるところがあった。焼き肉だと決めているのに、魚が食べたいとか、トウモロコシが いるとかソーセージとかで、買い出しも大変だったが、 鉄板の上は、思い思いの材料で賑やかだった。

 宿泊は、前年、大相撲の松ケ根親方(当時、若島津) が泊まったいうログハウス、地元で教鞭をとっている鎌田(33 ・米)、藤原(40 ・米2 )も参加し、近くの旭川からは、杉山がパジェロを飛ばして来た。議論好きの藤原と為近のディスカッションを聞きながら、深夜まで飲んだ。席上、臼井均(35 ・米)に支部長職を押しつけた。 臼井は、高校の英語教師で野球部長を兼任し、夏は、千本ノックで部員を鍛え、冬は、しなやかな体で華麗にスキーを滑るスポーツ万能タイプ。しかし、酒好きのせいか、車の運転だけは出来ないようだ。

 平成3 年は、定山渓豊林荘1 泊で計画、参加者4 人と寂しい思いがした。1 泊総会は、集まりが悪いことを学習した。平成4 年、札幌市内の大衆酒場で計画、4 人と低調。5 年札幌市内のホテルでバイキング方式、9 人と集まりがよい。もっとも、事前に開催時期のアンケートを取ったこともあり、効果が出たものと思われる。同窓 会本部役員の来道は、昭和59 年2 月、重枝組織部長以来途絶えていたが、平成6 年から、毎回、本部役員の出席が続き、6 年に仰木会長、7 年に新井副会長、8 年に藤井会長、9 年に久保田組織部長、10 年に江口会長、11 年に齋藤副会長が来道され、北九州との距離を感じなくな った。

 この間、会員の中にも若い同窓生の参加や、子育てを終えた市原美栄子(53 ・国文)の参加など、消えいく組織が息を吹き返す素地ができた。平成10 年の総会には、 田中、佐藤、山下、臼井、紺野、為近、杉山、橋本、亀石、西、前田、市原乙也、市原美栄子、横本真千子、渡部、網谷らの17 人が出席し、学長の来道以来、最も盛大となった。席上、事務局長に市原美栄子を選任、50 周年の記念すべき年に、期待を込めて支部組織の若返りを図ることになった。