北九州市立大学同窓会

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支部組織

鹿児島支部

北方の思い出が元気の源に

 鹿児島県人はよそに出ると、同郷人会をつくるなど結束力を発揮するといわれる。各地に鹿児島県人会、同じ市町村の出身者の集まりができ、先輩が後輩の面倒を見るように、北九州大学にも鹿児島県人会があった。

 昭和40 年ごろまでは、今の若い世代と違い、多くが言葉に不自由していたようだ。そんな学生たちが故郷を思い出し、元気を取り戻す場が県人会だった。

 同窓会25 年史には「入学してその日から県人が等しく不自由を感じるのは言葉である。鹿児島の田舎もんが喋っても通じるかどうか、自信がもてない。新入生は特に不安である。県人会当日は無礼講でしゃべりまくる。貝の如く閉ざしていた口元はいっきょに爆発である。『ジャッド、ジャッド』『オマンサー、ソヤチゴド』。酒に自信がなかった者まで飲みだす。最後はグロッキーでダウンである。ここで一人前になるのである」とある。

 鹿児島県人のつながりは、県人会の場だけではなかっ た。入学が決まるとすぐ下宿を探し、アルバイトも見つけてくれるなど、日常生活で先輩に助けられた経験を持つ人は多い。宮廻甫允(44 ・営)は「下宿は、大学から歩いて5 分ほどの福岡教育大分校の正門の斜め前だった。昼は分校のグラウンドでしごかれ、夜は毎日のように酒の洗礼を受けるというわけで、大きな不安を抱えての学生生活の始まりだった。しかし、下宿の2 人の先輩は鹿児島県出身で、卒業後も何度か会う機会があり、結果的にはずいぶんお世話になって今日に至っている」と述懐する。

 その県人会も盛んだったのは45 年ごろまでだったようだ。

 自衛隊と競馬場に挟まれた特殊な立地条件にあったキャンパス、深刻な公害、暴力団の抗争事件など異様な雰囲気の街。このような悪いイメージを持って入学した世代であったが、実際に生活してみると人情あふれる街で、 多くが4 年間を楽しく過ごしている。

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 田舎者にとって北九州は大都会で、入学当初、北方界隈の交通量の多さにまず驚き、その排ガスで気分が悪くなったことを思い出す。

 1 年の時は下宿をしていたが、2 年から間借り。共同トイレで風呂などなかった。リヤカーで引っ越した。

 最初の間借りは月2500 円。ただし、青大将が部屋の中を毎朝散歩するのどかなものだった。

 サバ天、ご飯の中盛り、味噌汁で45 円。卒業時は65 円だった。魚町に100 円のうまいトンカツがあった。

 大学正門近くの質屋は既になくなっているが、目のギ ョロッとした警察OBのおじさん、お世話になりました。

 奇形のカエルで有名になった山田弾薬庫は、鉄条網で仕切られていたが、暇を持て余し、しばしば侵入した。 銃撃されずによかった。

 1 年のうちで最も盛り上がるのが大学祭・青嵐祭だっ た。出店で酒を販売していたので、昼から飲んで騒いでいた。いろいろな人と知り合いになり、毎年楽しみにしていた。それがきっかけでカップルになる友達も多かった。

 少し足をのばせば足立山など小高い山がいくつかあった。夕食後の散歩や講義をさぼってのハイキングには事欠かない恵まれた立地条件だった。多感な青春時代を豊 かな自然に囲まれて過ごせたのは大変幸せだった。

 4 年間を新校舎で学ぶことができた。全国でも1 、2を争う設備の新館は、大学というよりリゾートホテルのような造りだった。

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 同窓生の胸には、北方周辺の思い出がしっかりと焼き付けられている。困難な状況に直面したときなど、心の中のアルバムからそれを引き出しては青春時代を思い出し、元気をもらっている。

 現在、鹿児島在住者で学生時代に名前をとどろかせた人物も多い。第3 代支部長の丸野は学友会の昭和39 年度委員長を務めた。副支部長の徳重も40 年度の北九州・下関地区大学文化連合協議会長として、9 大学の文化サークルの交流を進めるなど頑張った。指宿地区理事の諸留は第10 代応援団長として信頼を集めた。

 母校でも昭和44 年、学園紛争が起き、一部学生が9 月に本館を3 日間占拠した。このとき、学内の正常化に心を砕いたのが、空手部出身で体育会会長だった岡田だ。 他の大学のように機動隊が導入されることなく、学生たちの手で元に戻すことができた。愛媛県出身だが、いまや鹿児島支部の副支部長として、学生時代と同様、指導力を発揮している。

 吟詠部だった川井田克(53 ・済=鹿児島県警)は、4 年生の時に文化会総務委員会の執行部に入り、新入生歓迎行事実行委員長を務めた。

 ラグビー部が全国大会に昭和42 ・43 年と連続出場しているが、その基礎を築いたのが当時の名マネージャーで情熱家の清水満(38 ・商)であり、初出場で準優勝したときの主将がものに動じない今村隆(42 ・ 中)、2 回目出場の主将が熱血漢の肱元邦彦(43 ・中)である。本田譲辞(43 ・ 2 米)も連続出場で活躍した。

 同窓会の鹿児島県関係の会員名簿をめくると、半数がクラブに所属している。そこで、人間関係、団体生活のあり方を身につけたことが、卒業後の社会生活で大いに役立っているようだ。クラブに入っていなかった同窓生も「北九州大学には真面目な学生が多く、政治や、文学などについて夜遅くまで議論を交わした。今の自分があるのは大学のおかげ」と話している。私たちは北九州大学に育てられたと言っていい。