北九州市立大学同窓会

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支部組織

関西支部

関西のまち、人、風俗、事件の50年

(水の都と橋)
大阪は「水の都」と呼ばれる。江戸 時代には江戸の「八百八町」に対して、「八百八橋」と いわれた。「天下の台所」大阪の繁栄の源は水路であっ た。船をつかった交通網は物資の大量輸送に不可欠で 「出船千艘、入船千艘」といわれるように、あらゆる物 資が船を使って運び込まれた。
かつて70 を数えた大阪の堀や運河は戦後40 が消え、昭 和40 年代初めまで市内に約1500 本あった橋は現在700 本 余り減り、長堀橋や桜橋は交差点にその名をとどめるに すぎない。

(市電)発展を続ける庶民の足として市電は明治41 年に初めて開通したが、戦後のモータリゼーションと地 下鉄網の発達整備により昭和44 年4 月1 日、ついに65 年 間の歴史の幕を閉じた。

(大坂城、太閤の夢・浪速の夢)
秀吉が大坂城を 築き始めたのは1583 年。完成までに15 年を費やした豪壮 な城は大坂夏の陣(1615 年)で焼け落ちた。時をへて昭 和6 年11 月、大阪城天守閣の竣工がなった。
平成9 年3 月、大阪城天守閣は「平成の大改修」を終 え、昭和の再建当時の輝きを取り戻した。
工期1 年4 カ月、総工費約70 億円。施工は再建時と同 じく大林組が請け負った。鉄筋コンクリートの骨組みだ けを残して内外装をすべて剥ぎとる大規模工事だった。鯱や瓦なども1 枚1 枚丹念に修復された。

(阪神高速道路)
第1 号として完成されたのは大 阪市内中心部を走る環状線。全国でも珍しい一方通行の 高速道路だった。昭和39 年6 月着工し、全線完成は42 年 3 月だった。
平成7 年1 月17 日早朝、兵庫県淡路島沖を震源に、マ グニチュード7.2 の大地震が発生した「阪神・淡路大震 災」は死者6000 人余りとなり神戸市東灘区では高速道路

(高架) が600m 以上にわたり倒壊し、5 カ所で落橋した。 総延長は221.2km 。利用車両は1 日約100 万台。

(千里ニュータウン)
戦後の復興に伴い、都市部 を中心に住宅不足(20 万戸)となった。大阪府は千里ニ ュータウン開発を進め(昭和45 年までかかった)甲子園 球場約290 個分の1,160ha を開発、計画居住人口15 万人の 東洋一の街といわれた大プロジェクトとなった。平成11 年3 月末現在、ニュータウンの人口は96,550 人。昭和50 年代初めのピーク時に比べ3 万人以上減である。

(新幹線開業−高速鉄道時代の幕あけ)
昭和39 年10 月1 日開業。開業当時の「ひかり」は12 両編成で座 席は1 等と2 等で自由席はなかった。東京〜大阪間のひ かり利用料金は1 等5,030 円、2 等2,480 円。所要時間は 4 時間だった。最高速度は210km で世界最速列車。総工 費は約3,800 億円。新幹線の大阪乗り入れは新大阪駅と いう新たなターミナルを誕生させた。
当初の新大阪駅の新幹線乗降客は1 日平均25,000 人で あった。開業の翌年東京〜大阪間の所要時間は3 時間10 分に短縮された。国鉄の分割民営化を経て平成4 年には 「のぞみ」のデビューで最高時速は270km に向上し、2 時間半にスピードアップした。 平成9 年には500 系新型が登場し、300km 運転を実現 した。平成11 年3 月からは5 代目となる700 系新型が運 転開始した。そして、すでに「次世代の超特急」リニア モーターカーの開発が進んでいる。

(日本万国博覧会)
昭和45 年(1970 年)3 月、大 阪千里丘陵で183 日間開催の日本万博が開幕した。参加 国77 カ国。入場者は延べ6400 万人。「人類の進歩と調和」 を掲げた世紀の祭典は大成功。目からサーチライトを放 つ風変わりな太陽の塔、動く歩道、モノレール、ロボッ ト、月の石など入場者の知的好奇心を大いに満足させた。

(松下幸之助、人を愛した経営の神様)
松下幸 之助は明治27 年、和歌山県海草郡に生まれた。父親が米 相場に失敗し、9 歳で小学校を中退し大阪船場の火鉢屋 へ奉公に出た。その後、15 歳で大阪電灯に入社。電気の 知識や技術を幅広く習得、夜は関西商工学校で学ぶ。初 代通天閣のイルミネーション取り付け工事にも加わっ た。その後、独立して「松下電気器具製作所」を創設。 従業員は妻むめのとその弟・井植歳男の二人だけだっ た。ここで「二股ソケット」を考案、その後、自転車用 ランプを開発。角型ランプのヒットで従業員300 人の中 堅メーカーに成長。昭和10 年、「松下電器産業」に改組 した。
松下イズムといわれる経営哲学はその後の経営にいか んなく発揮され、労働組合とも力を合わせ「日本再建」 へ邁進した。 松下は名声に頓着することなく、終生の仕 事としてPHP (PEACE AND HAPPINESS THROUGH PROSPERITY )運動に力を入れた。
平成元年4 月27 日、静かにこの世を去った。94 歳だっ た。松下のことば『自分には自分に与えられた道がある。 広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだり もある。思案にあまる時もあろう。しかし心を定め、希 望をもって歩むならば必ず道はひらけてくる。深い喜び もそこから生まれてくる』

(朝比奈隆と大阪フィル)
90 歳という世界最高齢 の現役指揮者で、今も大阪フィル音楽総監督を務める。
京都帝国大学法学部に入学し、ロシアの亡命音楽家 「関西音楽の父」エマヌエル・メッテルのもと、音楽活 動に打ち込む。時を経て終戦後、満州から帰国、仲間と オーケストラ再興に乗り出すが資金がなく、大学の先輩、 大阪銀行社長の鈴木剛に協力依頼し「関響」を昭和25 年 に法人化。資金難に耐えながら「大阪フィルハーモニー 交響楽団」に名称変更。昭和46 年、国内の評価定着に伴 い、ヨーロッパ公演の依頼を受け、募金活動によりヨー ロッパ演奏旅行は1 カ月に及び、スイス、ドイツ、オー ストラリアなどで圧倒的な好評をえて充実を加えた。
大阪フィルは平成11 年で創立52 年を迎えた。海外公演 は13 カ国で6 度、公演数は延べ453 回を数える。大阪の 自由闊達な空気が育ててきた指揮者とオーケストラであ る。

(石津謙介、VAN 創業、メンズファッション革命) 石津謙介は40 歳の昭和26 年、「VAN ・ジャケット」を創 業した。戦時中は中国・天津の洋品店で働き感覚をみが き、終戦で日本に帰ってきた石津は、大阪の衣料メーカ ー「佐々木営業部(現レナウン)」に入社。昭和26 年に 独立してミナミに店を構えた。そして、アメリカ東部の 大学生スタイル「アイビールック」を流行させた。米国 製のファスナーを入手し裏地が取りはずせるレインコー トを作り売りまくった。また、アメリカ兵のヒントで胸 にポケットをつけたシャツをつくり、この胸にVAN の 三文字を入れた。初めてのブランド名入りシャツだった が、大ブームとなった。メンズファッションの革命が大 阪で生まれ、日本のファッション地図を塗りかえ、やが て「T.P.O 」の新語を生み出すなど社会現象となった。 オイルショック後の不況や若者の価値観の多様化などで VAN ジャケットは昭和53 年に倒産した。

(今東光和尚、河内を愛し新風)
昭和26 年、53 歳 の今東光は八尾市の古びた寺、天台院にやって来た。当 時の今東光は川端康成や横光利一らと共に新感覚の新進 作家として活躍していた。
寺での生活で知った河内の人情、風土が再び創作意欲 を呼び起こし、昭和31 年の「お吟さま」で36 回直木賞を受賞。その後、「悪名」シリーズは俳優の勝新太郎主演 の映画化で大ヒットとなった。「助平和尚」、「毒舌和尚」 と呼ばれたユニークで強烈な個性は今東光のイメージを 全国に印象づけた。 後に国会議員となったが、昭和52 年9 月19 日、79 歳の 生涯を終えた。

(服部良一、浪速を愛した歌謡曲の父)
服部良 一は「別れのブルース」、「青い山脈」、「東京ブギウギ」 など次々と大ヒットをとばし、歌謡界に不動の地位を築 いた「大阪の人」だった。少年のころから大阪道頓堀の うなぎ屋「いづもや」二代目安治郎のつくった「いづも や少年音楽隊」に加わり、その後、NHK 大阪放送局の 大阪フィルハーモニックオーケストラにスカウトされ、 そこで生涯、師と仰いだロシア人指揮者・メッテルと出 会い、作曲家としての土台を築いた。ブルース、ジャズ とそのリズムには服部メロディーがふんだんに盛られ集 大成となった。
昭和54 年、叙勲を受け、生涯最後の晴れ舞台は平成4 年、作曲家活動70 周年を記念した大阪での「服部良一音 楽祭」となった。翌平成5 年1 月30 日、85 歳の生涯を終 えた。

(藤山寛美・悲劇が育んだ「喜劇王」)
寛美は昭 和4 年、大阪新町で新派俳優の子として生まれた。道頓 堀の角座で子役として貧しい家計を助けた。11 歳の時、 渋谷天外から「喜劇向きの顔」と説得され、喜劇系の松 竹家庭劇に移籍、その後、慰問先の奉天(中国)からハ ルビンに行きソ連収容所に入れられ、帰国は22 年10 月。 天外率いる「松竹新喜劇」の一員となった。
テレビにも出演し大ヒットとなり、東京にも進出した。 人の好さから借金がふえ39 年には大阪地裁に破産宣告を 申し立てられ、41 年には新喜劇を除籍された。半年後に 復籍、翌年から62 年2 月まで20 年4 カ月間、ひと月も休 まず公演を続けたが、すべての企画に一貫していたのが 客本位の姿勢だった。上方喜劇の原点は「俄(にわか)」 で、底に流れる義理人情や人間愛を追求しつづけた。
生涯、愛してやまない大阪に対するこだわりをみせ、 平成元年に紫綬褒章を受賞、平成2 年5 月21 日、60 歳で 急逝した。

(杉原輝雄、努力家を育んだ茨木カントリー)
杉原は昭和12 年、大阪茨木カントリークラブの近くで誕 生、シニアの6 勝を含めて通算61 勝をあげ、還暦をすぎ てもレギュラーツアーに挑みつづけている。身長163cm 、 体重63kg と小さな身体に誰にも負けない根性をこめて、 180cm 以上の並みいるプロゴルファーに立ち向かった。 茨木カントリーで日本プロゴルフ界草分けの宮本留吉 プロに師事し、努力、努力の積み重ねで昭和37 年9 月の 「日本オープン」で初優勝をとげた。
茨木カントリーで 子供のころからキャディーのアルバイトをして昭和32 年 晴れてプロに合格。その後輩、中村通、山本善隆、前田 新作、宮本省三,その弟・康弘をリードした。関西ゴル フ界のドンとして、今なおレギュラーツアー優勝を目指 す63 歳である。

(コシノ母娘物語、情熱が咲かせた世界のモード)
コシノアヤコは大正2 年、だんじりの町・岸和田で生ま れた。岸和田はもともと綿布の生産が盛んな土地で、木 綿の織り屋も多く、今もタオル、ニットの町として岸和 田周辺は知られている。子供のころからミシンが大好き で、女学校を中退し洋装の道を歩み始めた。戦地で夫を 亡くしたアヤコは貧しさに耐えながら長女ヒロコ、二女 ジュンコ、三女ミチコを育てながら仕事にのめりこんで いった。ヒロコは27 歳の時、心斎橋に店を構え、57 年に はパリコレクションに参加、ジュンコは19 歳でファッシ ョン界の登竜門である装苑賞を受賞、53 年にはパリコレ を初開催した。ミチコもロンドンでショーを開催するな ど、3 人とも世界的なファッションデザイナーに成長し た。アヤコは昭和63 年、74 歳で「コシノアヤコ」ブラン ドを立ちあげ、86 歳の今も毎シーズン新作を発表する。
大阪を出発点にしたコシノファミリーのデザイナー物 語は続く。

(天王寺動物園)
天王寺動物園は平成12 年で創立 85 年を迎えた。 動物園に求められるニーズが多様化する中で、コアラ やキーウィ、レッサーパンダなど世界各地から珍しい動 物たちが来園した。さまざまな動物の繁殖にも成功し、 飼育動物は308 種、375 頭を数える。

(たこ焼き、浪速が誇る庶民の味)
福島県会津出 身の遠藤留吉(1907 〜1997 年)は23 歳の時、大阪に移り 住み、店をもつことを夢見ながら飲食店で働いた。昭和 8 年、留吉は大阪今里新地に「ラジオ焼き」の屋台を出 した。お客のアイデアをとり入れ、昭和11 年「タコ焼き」 を売り出した。今のソース味のタコ焼きが登場するのは 昭和20 年代の後半からであった。今もタコ焼きは大阪の 誇る粉食文化のひとつであることに間違いない。

(お好み焼き、好きやねん浪速の味)
大阪市中 央区のお好み焼き屋「ぼてぢゅう総本家」は戦後間もな い昭和21 年、「豚玉」を作り始めた。その後、濃厚ソー スも作られたことでお好み焼きは関西の食文化として一 気に開花した。お好み焼きを食べることは今や若者のト レンドとなった。現在、大阪府内のお好み焼き屋は、う どん屋を抜いて約4700 店。今やお好み焼きは関西だけの ブランドではなくなった。海外でも「OKONOMIYAKI 」 として通っている。

(サントリー)
創業者・鳥井信治郎は明治12 年、大 阪東区で生まれた。13 歳の時、薬種問屋に奉公。漢方薬 を主にワイン、ブランデー、ウイスキーの酒類も扱うハ イカラ店だった。
明治32 年、鳥井商店を開業し、ワインの製造販売を始 めた。その後、「寿屋洋酒店」と改名し、明治40 年には 赤玉ポートワインを発売。メディアを使って広告宣伝を 積極的に展開し洋酒業者としての地盤を固めた。
二男の佐治敬三は作家の開高健や山口瞳を宣伝担当に 加えて「トリス」をヒットさせた。PR 誌の「洋酒天国」 も酒場で配り、酒文化のバイブルとした。
佐治は昭和38 年、社名を「サントリー」に改め、サン トリービールも発売した。平成11 年には創立100 周年を 迎え新たな挑戦を続ける文化とライフスタイルを提案す る企業となった。佐治は平成11 年11 月80 歳の生涯を閉じ たが、「自由な闊達な気風に満ちた会社であって欲しい」 と社員に遺言を残した。

(文楽、存続の危機越え文化の花を)
文楽の歴 史は17 世紀初頭の江戸時代にさかのぼる。19 世紀の文化 年間に植村文楽軒が大阪の高津に文楽座を開いて人気を 博した。昭和20 年3 月13 日深夜、大空襲の洗礼を受け、 文楽の命である人形や衣装はことごとく焼失した。しか し、翌年、文楽座は復興し戦禍から奇跡的に立ち直り、 他の劇場に先駆けて開場され、娯楽を渇望していた人た ちで連日大入りとなった。文楽は今、日本橋に開設され た国立文楽劇場を拠点に公演を続けている。
平成11 年4 月には劇場開場15 周年を祝って記念公演が 行われた。くしくも43 年前の東京新橋演舞場と同じ「妹 背山婦女庭訓」だった。20 人の人間国宝を生み、竹本住 太夫、吉田玉男ら5 人は現役で活躍している。激動の20 世紀、何度も存続の危機を乗りこえてきた文楽は400 年 の歴史を経て新しい世紀を迎える。

(チキンラーメン、食改革)
現日清食品会長の安 藤百福は昭和33 年8 月、世界初の即席ラーメン「チキン ラーメン」を発売し爆発的なブームを呼び、34 年には半 年で6000 食に成長。35 年初めには10 万食の大台に乗って いた。簡単でおいしいインスタント食品は時代の要請だ った。昭和46 年、日清食品は「カップヌードル」を登場 させた。大阪から生まれた希代の発明品チキンラーメン とカップヌードルは世界50 数カ国に広がり、年間4 百億 食以上が消費されるようになった。安藤は今89 歳で、な お、夢を追っている。

(南海ホークスと大阪球場)
プロ野球の南海ホー クス球団創設は昭和13 年。ペナントレースが再開した21 年には近畿グレートリングの名で初優勝を遂げた。昭和 34 年10 月31 日、宿敵の巨人を無傷の4 連勝で下し、悲願 の日本一に輝き、翌々日、御堂筋パレードが行われ、人 出は約20 万人と発表された。
大阪球場は戦禍にあい昭和25 年9 月、一年弱の突貫工 事で完成した。収容人員3 万2 千人。戦後初の近代的球 場として浪速っ子の話題をさらった。翌年には照明設備 も完成し関西初のナイターが行われた。
南海は鶴岡監督の指揮のもと、昭和39 年、日本シリー ズで阪神を下して二度目の日本一に輝く。その後、ダイ エー(スーパー)への身売りが決まり、大阪球場最終戦 は昭和63 年10 月15 日の近鉄戦であった。ホークスの名前 をついだダイエーは平成11 年王監督の下、初のリーグ優 勝を果たし日本一となった。平成12 年もリーグ優勝した が、日本シリーズはおしくも読売ジャイアンツにやぶれ た。

(東洋の魔女、世界に興奮と感動)
昭和39 年10 月 23 日、東京オリンピックの14 日目、女子バレーボールの 決勝戦が行われ、国中の注目をあび悲願の優勝を果たし た。大松博文監督の下、河西キャプテンはじめ「東洋の 魔女」と呼ばれた選手達はその快挙にひたった。
ボール競技での金メダルは日本初の女子競技ではベル リンオリンピックの水泳100m 平泳ぎの前畑以来28 年ぶ りの快挙であった。この時、注目をあびたのはオリジナ ル技の「回転レシーブ」だった。このテレビ視聴率は 66.8 %。この記録はNHK 紅白歌合戦を除けば、いまだに 高視聴率ナンバーワンである。

(天神祭、水都の夏繚乱)
非業の最期を遂げた菅 原道真公の御霊を鎮めるため、大阪天満宮が設立された のは949 年。鉾流神事はその2 年後に行われたといわれ、 天神祭の歴史は優に1,000 年を超えている。長い歴史の 中で船渡御は何度も中止の憂き目にあってきた。大坂夏 の陣や大塩平八郎の乱では、大阪天満宮の一帯が焼け野 原となった。再び船渡御が復活したのは昭和28 年のこと だった。
平成6 年5 月、ついに祭りは海を渡る。オーストラリ アに氏子ら総勢1200 人が赴き鉾流神事から陸渡御、船渡 御に至るフルコースを現地で披露した。
毎年、盛大に催されるのは祭りにかけた浪速っ子たち の情熱のなせる技である。

(天六ガス爆発、最悪の惨事)
ガス爆発は昭和45 年4 月8 日午後5 時47 分ごろ発生。大阪市営地下鉄天神 橋筋6 丁目駅建設工事現場で埋設ガス管の継ぎ目部分が 外れ、ガスもれしたことに端を発し、地下にガスが充満 し大爆発。工事現場を覆っていた縦2m 、横75cm 、厚 さ20cm 、重さ380kg のコンクリート製覆工板約1500 枚が 空中に吹き飛んだ。
死者79 人、けが人は406 人。日本のガス爆発で最悪の 惨事になった。

(千日デパートビル火災、死者118 人)
昭和47 年 5 月13 日午後10 時30 分ごろ、千日デパートビル3 階のス ーパー「ニチイ」から出火、地上7 階、地下1 階、地下 1 階建ての2 階から4 階まで延べ8700 平方m を焼きビル 火災で史上最悪の118 人もの死者を出した。
その後、12 年間放置され、昭和59 年ショッピングビル 「プランタンデパート」に生まれ変わった。 この他にダイエー(スーパー)を創業し日本一の流通 企業に育てた中内功は「流通王」と呼ばれたが、2 兆4 千億円の有利子債務をかかえ、平成12 年ついに経営陣よ り身を引いた。
また、大阪府知事となった横山ノックは漫才師から知 事となり、平成12 年、スキャンダルで退任した。