北九州市立大学同窓会
支部組織
宮崎支部
宮崎支部
「太陽と緑と焼酎の国」宮崎。この地に北九大同窓会 宮崎支部が誕生したのは、昭和37 年11 月25 日のことである。
(同窓会25 年史の支部編より抜粋掲載)
初代支部長、原槙義(33 ・米)は、当時を次のように語っている。
「支部結成の働きかけは、当時の結田本部広報部長と母校の教育学の原田教授だったと記憶している。生来、私は徒党を組むのが嫌いで、特にナントカ同窓会なんてものは、保守的、親分子分的、右翼的で嫌いだったので、返事を保留していた。当時私は、ほとんど毎年、えびの高原で行われる『西日本英語講習会』に出席しており、この会の主役はなんといっても母校の河上道生教授だ。 河上先生に相談すれば『そんな下らんもんは止めとけ』 と言って下さると期待していた。ところが、あにはからんや、河上先生は『年をとってくると必要になるから、作ってやれよ』と言われた。かくして、結成の運びとなったが、とにかくまだ若い(?)私は同窓では最年長の部類である。まさに“名もなく、貧しく、美しく”であった。最初の苦労は、同窓が県内一円に散っているので、そう簡単には集まれない。連絡しても3 分の2 はナシのつぶて。金はないし、ハガキ代ももったいない。当時の記録を読み返してみると、若さの発露といおうか、未熟さの暴露といおうか、思わず顔が赤くなるばかりである。私は第2 回の総会終了後、38 年11 月28 日付で支部全員にこんなことを書いたことがある。『それにつけても、いろんな都合はあったにせよ100 人近くの会員中で、僅か18 人しか集まらないとは! しかも往復ハガキを出しているにも拘らず、出席の可否の通知をしないものが半数以上! 何をかいわんやである。現段階における同窓会の意義を最も認めていない者は、余人ならぬ自分だろうと思っている。しかし、10 年後、20 年後に、お互いがこ の組織を頼らねばならぬ時がきっとくるはずだ』……」 ─以上の如く、原槙義(33 ・米)ほか有志の努力により、とにかく支部結成に動き出したのである。
支部結成総会は、37 年11 月25 日、宮崎市“みなみ荘” で17 人が参加して開催されている。本部から結田一郎、 名古屋から福井義知(33 ・商)の特別参加を得ている。 会は支部設立を満場一致で決議。規約制定、支部運営費として年会費100 円の徴収などの決議、支部役員の選出がなされ、今後一層の会員の輪を広げることが確認された。久方ぶりに同窓が一夕を北方の地に思いを馳せ、議論し、校歌を、逍遙歌を歌って過ごしている。
なお、この時決定の役員は、支部長・原槙良(33 ・米)、 副支部長・大倉義邦(36 ・米)、鈴木七郎(33 ・米)、会計・岩切光央(35 ・商)、幹事・香田礼二(33 ・米)、竹之下幸一郎(34 ・商)、小野正二(33 ・米)、揖山茂治 (36 ・米2)、三上十志郎(32 ・米)、檜垣義郎(37 ・商)となっている。
第2 回総会
昭和38 年9 月21 日、“みなみ荘”15 人参加 会費の徴収方法、会員への連絡方法など熱心な討議を 行う。本部より江崎澄夫氏出席。
第3 回総会
昭和39 年9 月23 日“大太鼓”17 人参加 県支部を連絡上、三地区に分割する。英語関係の講演を母校の教授に依頼する。「西日本英語講習会に北九大より一部負担金の助成を願う」ことなど。本部より守谷
隆三郎氏出席。
第4 回総会
昭和40 年12 月5 日“割”19 人参加 母校から河上道生教授を招いて「英語教育の諸問題」と題して講演、一般市民にも公開した。本部から守谷隆三郎氏出席。
第5 回総会
昭和42 年10 月10 日、“みなみ荘”17 人参加。母校から原田芳雄教授(教育学)が出席された。 当時会員は153
人、全会員に往復葉書で呼びかけたが 返信は52 人、(1)如何にして参加者を増やすか(2)会費の件、(3)事務的業務担当者の件、などが真剣に検討された。役員は支部長に原槙良、副支部長に岩切光央、坂田和昭、柳田勲、会計に岩切克彦、幹事に山下利明が選出
されている。
第5 回以降、8 年4 カ月と空しい歳月が流れたのであったが、その間、空手部OBを中心に、また昭和49 年3 月2 日、県内高校商業担当者9 人が青島の“潮騒閣”で談論風発、放歌高吟、北方を懐しみ、宮崎支部の分支部「潮騒会」を発足させた。
昭和51 年1 月14 日“グランドホテル”で総会を開催。
10 年近くのブランクにかかわらず38 人が参加。“一泊どまりで徹底的に飲み、語らう”の前宣伝が効いたのか大盛況であった。(1)規約の一部改正(2)支部役員の改選が行われ、夜の更けるのも忘れて情報交換、支部の一層の発展の努力が確認された。
○役員は、支部長・原槙良、副支部長・三上十志郎、岩切光央、柳田勲、岩切克彦、幹事・竹之下幸一郎となっている。
(以下は同窓会報、宮崎支部編より抜粋掲載)
昭和54 年2 月3 日 総会開催50 余人参加 (支部総 員270 名)
母校の体育学の美山豊教授、本部上田則文氏出席支部長を中心に各役員が一致協力、チームワークのとれた素晴らしい総会であった。翌日、支部長の案内で青島〜日南海岸での「伊勢えびの活づくり」のご馳走になり宮崎支部役員の御努力に敬意を表すと共に支部の益々の発展を祈念いたしたい。
昭和57 年2 月6 日“臨港停”60 人出席で総会を開催。
石原文雄学長、御手洗博教授、本部山本英徳、重枝新三氏が出席。
第20 回総会 昭和58 年2 月5 日“フェニックスホテル” 53 人参加(うち女性5 人)。
お互いの仕事に相互に協力し、地域社会への協力に努める事を打ち合わせ、今後活動していくうえにより強力に同窓会が団結していく事を確認した。手初めに、ゴルフの会を催し近々第二回のコンペを行うことにしている。本部出席者児玉至誠、延吉和典氏。
昭和59 年2 月4 日“ホテルフェニックス”38 人参加。
都城と延岡にそれぞれ支部を作ることが話し合われた。新役員に次の方々が選出された。支部長・平吉廣年 (33 ・商)、副支部長・尾畑充宏(38
・米)、黒田徹 (33 ・米)、山下哲也(33 ・商)、事務局長・岩永清治 (48 ・商)、婦人部担当・相田聡子(旧姓甲斐(55 ・英))、
相談役・原慎良(33 ・米) 本部出席延吉和典氏。
昭和61 年3 月15 日 40 数人が出席。
河上道生先生の「学習英文法書の不備について」の講演があり、こちらは50 人以上の英語を志す人達がつめかけた。大学40 周年記念の募金について全力を挙げることが誓い合われた。本部から児玉至誠、延吉和典、吉田定代の三氏が出席した。
昭和62 年2 月7 日“ホテルフェニックス”50 余人出席。
開学40 周年の記念式典のビデオ視聴、募金の報告がなされ、母校の発展に期待が寄せられた。 本部出席小川武教、延吉和典両氏。
昭和63 年2 月13 日“ホテルフェニックス”70 余人出席。
開学40 周年の募金に今一歩、頑張ろうの声が上がった。
平成元年2 月11 日“ホテルフェニックス”43 人出席。
企業の中で全員参加したのは宮崎銀行、宮崎太陽銀行であった。金子信光教授、本部小川武教、中川八重香両氏が出席。
平成2 年2 月17 日“ホテルフェニックス”約50 人が出 席。
太陽銀行の全員参加を目指す取り組みが会に活力を吹き込んだ。本部善岡幹雄、永岡啓征両氏が出席。
平成3 年2 月第二土曜日“ホテルフェニックス”約70 人の出席で盛況。
中谷学長の集中講義で久しぶりに学生にもどりその名講義を傾聴し大いに盛り上がった。
平成4 年2 月の第二土曜日、約60 人の出席。
吉崎康博教授、本部善岡幹雄、永岡啓征両氏が出席。
平成5 年2 月13 日“ホテルフェニックス”65 人出席。
前年度都城支部が発足。平吉廣年氏の支部長勇退の表明があり、役員改選で後任には橋口武睦(34 ・商、宮崎銀行取締役)が就任し合わせて新役員を選任した。また年度の方針の中に県北支部(延岡・日向地区)発足に取り組むことになった。