北九州市立大学同窓会

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支部組織

宮崎支部

母校に対する万感の思い

 同窓会創立50 周年を心からお祝い申し上げます。

 私が母校を卒業してから早や42 年になるが、老いていくごとに母校を思う気持ちは募るばかりである。父を亡くし、大学進学をあきらめていた折に、北九州(小倉)の兄より「俺が大学を出てなくて苦労したから、俺の所に来い。小倉市民になれば、学費は高校並みだから」と誘いを受けて、母校の門を叩いたのが昭和30 年3 月である。大学での生活は、金が無くて大変苦労をしたが、しかし、私の人格形成に大きく役立った、変化の多い充実した4 年間であった。今でも福岡への出張の折は、必ず小倉まで足を延ばして母校を訪ねるが、平成12 年2 月25 日、久方ぶりに北方へ参った。今回の原稿依頼を受けていた折でもあり、約1 時間半、キャンパス内をゆっくり歩いて回り、40 数年前のあの頃を思い出しながら、しばし感傷に浸ったのである。今は、立派な鉄筋コンクリー トの校舎が建ち並んでいるが、あの頃は、木造のおんぼろ校舎がぽつんぽつんと建っているだけで、キャンパスはとても大学と言えるものではなかった。しかし、当時の学生は、いろんな個性をもった人物が集まっていて、構内の運動場(現在、運動場は別の所に移転)で、よく青春を語り合ったものである。先生とも身近に話すことができたが、近くの寺に間借りされていた哲学の三浦教授に「金が無い時は、安くて滋養のあるトーフに醤油をかけて食べなさい」と親父のような教訓を受けたことを今でも覚えている。1 年生の後期から、英文タイプ部に入部しクラブ活動に加わったが、ここで多くの良き先輩に恵まれ、組織活動の大切さ、人を管理する能力を体得することができ、社会に出てから、それが大いに役立つこととなった。この時の先輩の1 人に、矢野俊介氏 (32 ・米、現在、東京理科大学教授)がいた。アルバイトもいろいろやったが、部活で習得した英文タイプが身を助け、卒論時期になると、米英科の学生から卒論作成の注文が殺到し、この時ばかりは財布の中が潤って、学生食堂で腹いっぱい食べることができた。大学には真面目に通った方であるが、授業、アルバイト、部活と毎日を忙しく過ごしたので、大学4 年間は、またたく間に過ぎたが、特に4 年生の秋は、ナベ底景気(極度の不景気)の中で、就職活動のために、国内を東に西に走り回った。幸い、郷里の銀行(現在、宮崎太陽銀行)に就職できて、昭和34 年3 月、郷里の宮崎に帰ることとなった。

社会人となってからも、母校に対する思いは、私の胸から少しも消えることはなく、仕事の関係で、たまたま同窓生に会った時など、いつも懐かしさに話をはずませたものである。そんな折、宮崎で年に1 回、母校の同窓会が開催されていることを知り、昭和51 年から参加するようになった。年齢、世代は違っていても、北方で学んだ仲間が一堂に集まって、酒を酌み交わし、校歌・逍遙歌を歌えば、懐かしさの余り、酔いしれてしまうのが毎年のことであった。

橋口 武睦(34 ・商)