北九州市立大学同窓会
支部組織
田川支部
創設期
支部結成
田川支部の設立は比較的新しく、昭和40 年にその産声 あげた。故・弓部治夫(32 ・中)の家の2階に多数の同窓生が集まり、母校から故・美山教授を迎えて結成の気炎をあげた。田川には古い卒業生が多く、初代支部長 に故・大林肥生男(24 ・専米、28 ・米)、同じく副支部長に小林稔(25 ・専中)、事務局長に故・弓部治夫を選出した。
小倉鉄道通学風景
当時、田川から小倉までの鉄道通学ルートは、直方・ 折尾経由、行橋経由それに小倉鉄道(添田−上伊田−香春−東小倉)経由の3 つがあった。小倉鉄道を利用する学生は、男子はわが小倉外専と小倉師範、八幡専門、明治専門、九州歯科医専、女子は西南女専、東筑紫女専、 文化専門などで、中でも小倉外専が一番多く、にぎやかであった。
小倉外専生の車両にはなぜか若い女性が多く、小倉鉄道美女10傑を選出したり、体育祭に招待したり、また、桜の季節には花見コンパなどをしたものである。中には、お互い話はしないのに「あの娘は、どこの誰さん」と不思議に消息に詳しい者がいた。今にして思えば、本当に純情な青春のひとこまであった。小倉外専生のほとんどは石田駅で下車し、学校まで約30 分の田舎道を歩いた。 皆川節夫(24 ・専米)を先頭に、小林稔以下10 数人が、軍服姿やマントに高下駄、腰に手ぬぐいの風体でぞろぞろ歩く姿は、まさに「外専石田道中」ともいうべきものであった。
アルバイト
当時の学生の中には、海外からの引き揚げ者や旧軍人、 さらに空襲などで生活の基盤である家そのものが崩壊した者等が数知れずいた。そうした中で勉学の意思を燃やすため、だれの世話も受けず自分1 人で学費を稼ぎ頑張り通して卒業していった。商店街の一角を借りて女子学生と一緒にアイスキャンデーやカキ氷などを売る者、建設現場で土方人夫としてツルハシを振るう者ら汗にまみれての学生生活であった。
副支部長であった小林稔は、 家業のアイスキャンデーを自転車でチリンチリンと売って回っていた。そのせいか、今でも元気旺盛で支部総会には必ず顔を出し、2 次会、3 次会までつきあう。とても76 歳とは思えない馬力である。
バドミントン部創立
長野達之(26 ・専中)はバドミントン部を創立した。 彼は有志と図り、まず学友会予算委員会の承認を得ることから始めた。体育の故美山、辻両先生にバックアップをお願いする一方、演劇部に入っていた彼は、その筋から女子学生を入部させたり、練習を見に来た者に声をかけたりして、やっと20 人近い名簿を提出し予算委員会に出席した。
当時、すでに野球、相撲、ラグビー、柔道、 庭球、演劇、ブラスバンドなどはかなりの実績をあげ、 重量挙げ、空手、ボクシングなどの台頭の中で、知名度の低いバドミントンの名乗りは薄氷を踏む思いであったが、彼の一世一代の大熱弁の力でわずかながらも予算がつき、昭和25 年9 月に部として発足することとなった。
創立時は満足な練習場もなく、すき間風の吹き込むコ ンクリート床の旧倉庫で、正式なコーチもいないまま、 テキスト片手に自己流で、しかしひたむきな練習に励んだ。そして、遂に九州地区を制覇する偉業を成し遂げ、 立派に部の基礎を築いたのであった。やがて、彼らに育てられた後輩が全日本大会に出場するなど、「九州に北九大あり」の黄金時代を迎えたのである。
貧しくとも良き時代
私が小倉外専3 期生として入学したのが昭和23 年。そ して26 年に旧制専門学校最後の卒業生として母校を去っ た。そのころはまだ日本は米軍の占領下にあり、旧小倉市は基地の街で、北方、城野に米軍のキャンプがあった。 学校の周辺にはバラックの急造の売春宿が集落をなし、 暴力団、かつぎ屋、ブローカー、ルンペンなどがたむろし、基地特有の頽廃・喧騒の中に、何ともいえない活力がみなぎり、世相もまた混沌として過渡期であった。 学校も発足したばかりで学生の数も少なく、学科も米英科と中国科の2 つだけであった。校舎は旧軍工兵隊のオンボロ兵舎を使っていた。
しかし、それだけに伝統校には見られない、何物にも立ち向かっていこうとする若さ、貧しく苦しいながらも教職員・学生が一体となって 新設された学校を立派に育てあげていこうという創造への熱気といったものが、大島直治学長を中心に一丸とな って燃えたっていた。当時の先輩は陸海軍関係者、海外からの大学・高専からの引き揚げ者が非常に多く、年齢・経歴、そして服装もさまざまで、教官と学生との間も極めて親密であり、貧弱な施設、きびしい食糧事情にもめげず、旺盛な知識欲は教室で私語をする者など全くいない状況であった。
また、親からの仕送りなしで、炭坑、夜警、米軍の通訳、雑役、輪タク、家庭教師など夜間に働き、昼は学校にといった苦学生も多かったが、暗 いイメージは全くなく、明るく活力に満ちあふれていた。 これらの先輩は、軍隊や海外からの引き揚げ、空襲など の生死の境をさまよう極限状況の体験から、事に臨んで 何ごとにも動ぜず、きちんと自分の生き方を考えていたようである。
このような素晴らしい先輩との交流は、ストレートに入学した田舎者の私にいろいろと多くの教訓を与えてく れた。この3 年間、私は目まぐるしいと言ってよいほど、 いろいろなことに手を出し動き回った。演劇部活動、新聞部活動、バドミントン部創立、学生同盟員としてシベ リア引き揚げ旧軍人を舞鶴に迎え郷里に帰るまでの車内での世話、大学昇格のための街頭署名、昇格基金のための人夫のアルバイト、旧倉庫コンクリート床をハンマーで叩き割り除去する作業、地区高専野球リーグ(下関水産専、明治専門、歯科医専、小倉師範、八幡専門、小倉外専の6 校)の応援、体育祭、文化祭、ダンスパーティ ー、ファイアーストーム、北斗寮(たぬき寮)生活など。
さて、外専も昭和25 年に北九州外国語大学として発足。 旧小倉外専として昭和26 年に卒業する者と、あと2 年進学して大学1 期生として昭和28 年に卒業する者とに分かれたが、私は福岡県職員に採用が内定していたので外専3 期生として卒業した。
現在、私も70 歳。そのうちのわずか3 年間の学生生活であったが、良き教官、良い先輩・後輩に恵まれ、共に喜び、涙し、汗を流し、何事にもためらうことなくぶち当たっていった無欲な青春のひ とこま、小倉外専で学んだ多くのことに感謝の気持ちで いっぱいである。そして、今もなお、支部総会で後輩のみんなと校歌・逍遙歌を大声で歌うことに無上の喜びを 感じているのである。
長野 達之(26 ・専中)
教科書が光り輝いて見えた
家庭の事情で高卒後、一度は就職したものの、どうしても英語の学習が忘れられずに、わずかなアルバイト料を貯めての受験から始まった北九州大学への入学であっ た。経済的余裕のなさから、2 枚のキャラコのブラウスと1 枚の黒のタイトスカートで1年中を忍耐強く過ごし たし、当時の国鉄の2 駅間くらいは平気で歩いていたものである。
今、思うとぞっとするが、人間というのは環境によってはかなり厳しい生活をやっていけるものである。当時は女子学生は1 クラスに5 分の1 くらいの人数であった が、男性と同じく学べるという知的満足感への喜びは非 常に大きく、毎日が宝のような大切な日々であった。教科書の1 冊1 冊が光り輝いて見えたし、感謝の気持ちい っぱいで使ったものである。物は不足気味の方がどんなにか価値があるのではと経験を通して考える今日このごろである。
米英研究会では先輩達に導かれて英語劇で大いに学ばせてもらい、後に中学教師になった時に、生徒達にさせて大変役に立ったものである。私の人生で英語を使うことのお陰で出来た多くの外国の友人達にどれほどの勉強をさせてもらったことか、今の私の心の財産で ある。
私も来年で還暦を迎えるが、現在も高校の非常勤講師をさせてもらいながらALT(外国人補助教員)の外国人教師とともにティームティーチングを楽しむことが出 来るのも、そして、私的生活に根付いてくれている外国人達との交流は楽しく、我が日本文化を伝えたり、その逆もまた、ありで気持ちはいつも青春でいられるのも北九大に入学、そして学ばせてもらったお陰である。
岡部(旧姓山本)由起子(38 ・米)