北九州市立大学同窓会

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支部組織

若松支部

若松の街

 紅い色の若戸大橋で、洞海湾をひとまたぎすると若松区へ入る。 洞海湾の歴史は古く、さかのぼれば「日本書紀」に、 神功皇后が熊襲(クマソ)征伐でこの地を渡る時、夫の仲哀天皇は外海(ソトウミ)、今でいう響灘を通り、皇后は内海の洞海湾を通ったという記述がある。当時は洞海湾ではなく、大渡川(オオワタリガワ)と呼ばれていた。

 古今和歌集には「つくしなる大わたり川(洞海湾)おほかたは我ひとりのみ渡る川か」と紀貫之が詠んでおり、 このころの若松は葦の群生する白砂青松のひなびた海岸だったようで、若松の地名もこの辺りに由来するのではないかと考えられている。

 当時からすでに重要な水路であることは認識されていたようで、古代人たちが、ここを経由して海外に雄飛したかと思うと、歴史の浪漫を感じる。

 明治以降、本格的な築港が行われるまでは、黒田藩の年貢米輸送の中継地点として、博多商人達からのおこぼ れで生活しているような寒村だった。

 明治になり、若松が筑豊炭田の石炭の積み出し基地と なり、築港が進み、日清戦争後の急激な重工業の発達、 エネルギー革命、「鉄は国家なり」の国策などに後押し されて全盛時代を迎える。その活況ぶりは欧米の港湾都 市と肩を並べ、またたく間に世界屈指の港湾都市となっていった。若松のゴールドラッシュ時代がそこにあった。

 若松駅の貨物取り扱い高が、石炭で日本一になったのは、わずか50 年前のことである。 昭和40 年代、エネルギー転換政策により、石炭の命脈が断たれた。これは若松にとって致命的な事態の到来だった。若松経済からみれば石炭に代わる支えは他になかったからである。

 昭和55 年、若松埠頭鉄道が廃止となる。この負を清算するには旧若松地区とほぼ同じ面積を持つ響灘埋め立て地の開発に期待する以外になく、かつての石炭依存症体質を根本的に改善しなければならなかった。

 その3 年前、由緒ある若松石炭協会が解散し、同年、響灘工業用地協同組合が設立されたことは、古い若松から新しい若松への転換を意味する象徴的な出来事となるはずだった。

 しかし、高度成長期にも乗り遅れたまま、バブルの崩 壊の悪影響をもろに受け、響灘工業団地構想は長く、長く宙を舞っていた。ようやく一筋の光明がみえたのは、 平成6 年になって、響灘環黄海圏ハブポート建設工事の一部が始められた時だった。

 西日本及び環黄海地域から発生する北米・欧州向けのコンテナ貨物を中継する機能をもち、産業展開の地域として期待されるビッグプロジェクトで、平成15 年に第1 期供用開始が予定されている。

 また、響灘地区のコンテナターミナルがその機能を発 揮するためには、アクセス道路の整備が必要となり、現在の若戸大橋が飽和状態になることから、新若戸道路 (若戸トンネル)の建設が予定されており、平成15 年に トンネル部分供用開始予定である。平成15 年以降、若松 地区は経済、生産、物流活動に期待出来るものがあり、 ようやく将来がみえた感がある。

 同時進行として、平成9 年から北九州エコタウン事業 が始まり、他の地方自治体に先がけて、リサイクル工場の建設が始まり、すでに開業している事業所もあり、地球環境を考えた工業都市として新生しようとしている。

 かつて石炭の積み出し港として、粉じんをまき散らし七色の煙を吐き出していた街が、環境にやさしい事業をする街づくりの最先端をいこうというのである。

 若松は豊かな自然と文学の街でもある。 文学散歩としゃれ込んでみよう。

 かつては帆船がひしめいて戸畑側の金比羅山が見えな かったという洞海湾、若松南海岸通りは、大正ロマンストリートとして、平成11 年にリニューアルデビューした。 その通りは、大正期の建物群が、その時のまま残ってお り、近代港湾都市固有の帯状のまち空間をなし(通称、 若松バンド)石炭景気に沸いた時代がしのばれる。旧三 菱合資若松支店ビル、旧麻生鉱業ビル、石炭会館、栃木ビルが並ぶ通りをJR 若松駅方向へ歩く。復元されたごんぞう小屋で一服。

 火野葦平資料館を右手にみながら、 山手通りの河伯洞へ向かう。河伯洞は火野葦平の旧居で、 昨年、没後40 年を記念して、大改修が行われ、一般公開された。書斎などがほぼそのままのかたちで残されている。 火野葦平は若松が生んだ芥川賞作家で、その活躍は、 戦前、戦中の九州の文学を支えた。従軍記者として参戦中、「糞尿譚」での芥川賞受賞の知らせを聞き、軍服で戦場での受賞式に臨んだことは、有名である。戦後、戦争賛歌の小説家(兵隊シリーズ「麦と兵隊」他多数)の 烙印を押されるが、目指すところは実は日本陸軍のドキュメントであったといわれており、誤解されたままで、 みずから命を絶つとは、さぞ悔しかったことだろう。

 山手通りを抜けると白山神社。神社を右手にみて、高塔山に登る。高塔山の標高は124m と丘くらいの山だ。 中世には山城があり、城主は大庭隠岐守景種であったと伝承されているが、史料はない。古地図をみると、「高頭山」と書かれているものもあり、また、若松の古い人 は「こくぞう山」とも呼ぶ。頂上に虚空蔵菩薩が祠られていたからで、その石仏は高塔山の守り本尊であったと考えられている。火野葦平の民話小説「石と釘」は、この菩薩様と遠賀川の河童伝説をたくみに採り入れて創られた完成度の高い作品といえる。

 山頂の松林は、戦争前まで高塔山のシンボルで、火野葦平は「山上軍艦」という詩でその様を表しているが、 戦争中、軍隊が陣取り、松根油採取のため伐採してしま った。

 現在は15ha の公園として整備され、万葉植物園、火 野葦平文学碑、河童封じ地蔵尊、県木の森のほか、プール、グラウンドなどの施設があり、園内は樹木と四季の花々に恵まれ、椿、桜、ツツジ、紫陽花と一年中、緑や花が楽しめる。

 展望台に立つと、若戸大橋、洞海湾、スペースワール ド、小倉城、関門橋まで一望に眺められる。特に、ここからの夜景は素晴らしく、黒いビロードに数々の宝石を 散らしたようなファンタスティックな眺めである。

 高塔山の西側、石峯山を仰ぐ方角に、高須から本城地区がある。ここには北九州学術・研究都市の中核的教育機関が集まっており、北九州大学国際環境工学部も平成 13 年4 月の開学に向けて建設工事が進んでいる。

 高塔山を起点に玄海遊歩道を歩く。その名のとおり、 遊歩道だから、車両の進入がなく、山の姿も荒削りで、むき出しの自然を満喫できる。終点、グリーンパークまで約4 時間、春はわらび狩り、秋は紅葉狩り。山遊びの 後は脇田海岸で、青い海と沖に点在する白島の眺望を楽しむ。石油備蓄基地の消波ブロックが見えかくれする響 灘埋立地には、石油備蓄資料館も新設された。

 残照の街から、日の出の街へ、再生の足がかりとなる 器の準備は進みつつある。が、人の心が動かないことには人は集まらない。今後の課題は若松へ人を動かすこと、 人の心を若松へ向けさせることではないだろうか。

 文学散歩の気分で、軽く若松へ足を向け、心を向けて 欲しい、と切に願う。