北九州市立大学同窓会

HOME > 支部組織 > 八幡支部 > 支部のご案内

支部組織

八幡支部

八幡支部の誕生

 「戦後、外地から帰国してきて八幡で働く青年や、民主文化国家としてのこれからの日本を模索する学生たちは、浜田小倉市長(注・当時は小倉市)の英断で創設された小倉外専・北九州大学に集まり、そこで元気に、学び、議論し、遊び、思索し、行動した。卒業して八幡の各職域で活躍する人たちは自然、多くなったが、その人達から、時に相集まって、情報を交換し、自分や地域、 職場の目標を語りあい、激励しあおうという声がおこり、八幡支部結成大会の開催を準備することになった。

 当時、 仰木忠幹(24 ・専中)、山下修(25 ・ 専米)、見畑功一(24 ・専米)、徳田健(30 ・短)、八平川哲 夫旧姓縄谷、24 ・専中、28 ・中))たちで再三準備会をもち、名簿作成、確認、案内の順序を踏んで昭和33 年4 月17 日、八幡中央公民館喫茶部“ジャンヌ”を会場に支部結成総会が開催されたのである。ここに北九州各支部の先陣を切って、同窓会長年の願いであった支部結成が成ったのである。

 当時の記念写真から当日の参加者を見ると、母校から古野学長、明石、大隈、加藤の諸先生。同窓会本部から土谷会長、西野、守谷の3 人、大学後援会八幡地区代表の帆士、城戸の両氏らを加え、総勢39 人である。このメンバーを見ただけで如何に同窓会支部設立に、大学、同 窓会、後援会が一体となっていたかがよくわかる。

 初代支部長には仰木忠幹、副支部長・村上尚治(28 ・中)、富川良三 (29 ・短)、事務局長・徳田健、会 計・山下修が選出され、今後の活動方針の決定、本部報告があり、あとは学生時代に戻り、恩師を交えて話に花が咲いたのはいうまでもない。 そしてみんなで明日からの活躍を胸に秘め、再会を誓い合って散会したのであった。

 支部結成から現在までの経過について、仰木支部長は 「いずれの団体もそうであるように、八幡支部の活動もある時期は活発であっても、時には沈滞して今日に至っているが、いまこれらを思い出すとき、感無量のものがある。結成時は各期部別の代表による運営によって数カ月に1 回の幹事会、年1 回の支部総会、ガリ版による支部だより、会員名簿の発刊、という活動をすすめ、充実したものであった。しかし、会員数が増加し、運営が難しくなってきたので、職域別の代表による運営に切り替え、今日に至っている。

 だが、まだ順調とはいえないようだ。この間、38 年には支部の職場別名簿を発刊したり、 42 年11 月の支部総会(於“松助”)には『卓話と親睦の 集い』というタイトルで母校、北九大神崎義夫先生の 『北九州の都市問題』や同窓の秋吉勝広(24 ・専中)の 『東南アジアの人々』の話を聞いたあと親睦会をしてい る」といっている。 (以上「同窓会25 年史」より)。

 また、当時の支部長・仰木忠幹は、北九州大学同窓会 会報「北友会会報」の第14 号で次のように述べている。

 「八幡支部は、昭和33 年4 月に結成されました。初めは、各部期別の代表による運営で、数カ月1 回の幹事会、 年に1 回の支部総会を開催するとともに、支部だより (ガリ版刷り)、会員名簿の発刊という活動をすすめてきました。しかし最近では、会員数の増加にともなって、 運営がむずかしくなってきましたので、職場別の代表者による運営に切り替えております。幸い、区役所、製鉄、化成、水道組合(当時は水道部門のみ組合組織だった)、 金融機関、学校、商事会社などで組織ができつつありますので、確実な連絡ができ、職場別の集まりが活発になると思うと、これからが楽しみです(中略)」

 「黙々と地道なお世話役に努められる徳田健事務局長、 山下修会計とにささえられて、八幡支部は前進をつづけます」 これを機として、毎年1 〜2 回ずつ《職場代表者会議》が開催され、本格的な八幡支部結成に向けて、活動している。

 この時期は、まだ職業的に現役で、多忙な時期であるにも拘わらず、同窓会としての活動をしている。 そして、《1964 北九州大学同窓会八幡支部名簿》が、 当時のガリ版印刷であるが、プロ印刷で作られている。

 このようにして、『北九州大学同窓会八幡支部』が、 正式に発足した。第1 回総会の案内プリントのコピーを見ると、当時の《手作り》での苦労がしのばれる。

 ここで、当時の仰木支部長の言葉を借りれば、「とにかく支部総会を開くことに全力を尽くした」とのことで、 そのころの支部運営の難しさがうかがえるようである。