北九州市立大学同窓会

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平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演)
基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」

得をする英語の学び方と教授法」
   北九州市立大学名誉教授 乘口 眞一郎(S42・外国語学部米英学科卒)
※画像はクリックで大きくなります。

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 山崎先生、ご紹介ありがとうございました。皆さんこんにちは。
 今日は皆様方のお手元に、二種類のレジュメを、或いは、お話をするときの資料を、お配りしております。「北九州市立大学をばねに活躍する人々」と言う共通のテーマで、先ほどご紹介いただきましたように、各界から2名ずつ選んで、皆様方にお話させていただく、ということになりました。今回は第七回で「得をする英語の学び方と教授法」と題しまして、私が担当させていただきます。

 山崎先生からこういった共通のテーマを説明され、“貴方はどうですか”という打診を受けたときから、1つの疑問を私は抱いたまま、今こうして皆様方の前で、お話させていただいております。が、この瞬間にも、その疑問が消えておりません。それは、随分優秀な先生方が、沢山おられるのに、私如きがしゃしゃり出て、お話しする立場ではないんではないか、ということです。ですが同時に、多くいる教育界卒業生の中から、2名の中の1人に選んでいただいたことは、大変光栄ですし、そして誇りに思います。これから70分間ほど、お話をさせていただきまして、できれば皆様方から、忌憚の無いいろいろなコメントなり、質問なり、あるいは批判をいただければ、誠に有難いと思います。
レジュメの内容
  1. はじめに
    1. “それ、本気なん?”
    2. “おい、北九大ちぞ!”
    3. “大学入試英語ぶった切り”(タイム・カプセル)
    4. “自殺志願者 ― 先生、ぼくが本当に死んでもいいんですか?”
    5. “キース君”(電気鋸で腹を真二つ)、“ヴィーナス嬢”(2m1cm、怪力黒人女子大生)
    6. 「アメリカ文学原書講読会」「英語実力培訓講座」
    7. “MY朝誕生”“威張るな、愚痴るな、笑って過ごせ”“生涯英語、生涯現役”
  2. 私の英語学習方法:二人の恩師
    1. 河上道夫先生(通訳・実用英語)
    2. 故待鳥又喜先生(アメリカ文学原書講読)
    3. 北九大ESS:無残な敗北(一人で戦う全国大学英語討論会)、英検一級受験物語
    4. 英単語、音読、多読、英作文
  3. 私の英語教授法
    1. ベルサット運動
    2. 悪魔“乘口”
    3. 給料泥棒
    4. 全身全霊
    5. 教える側の人格
  4. 日本の英語教育への提言
    1. 国策としての英語教育
    2. 全ての英語教員を1年間海外研修
    3. 高校・大学入試科目から英語を外す:大学受験資格TOEFL(学部別基準設定)
    4. ALTは英語圏の退職教員にシフト
    5. 全国大学英語教員免許状:中学1年間、高校2年間の教職経験者

  5.質問・自由討論

 今日は、レジュメにありますように、“はじめに”と言う項目から始まって、4番まで大きく4つの柱を立てて、お話をさせていただく予定です。最初は2・3・4を中心に考えておりました。ところが、山崎勇治先生から2週間ほど前に、英語だけの話をしないで、教員生活44年間を振り返って、いろいろと皆さん方にも、共有できるような話があれば、そういう話にも触れていただけないだろうか、とお聴きしましたので、急遽1のところに7項目ほど挙げました。それを付け加えさせていただきました。
 ところで話をする前に、資料の確認をさせていただきたいと思います。まず第1の資料がレジュメとそれから裏側です。さらにNO2.とその裏側、こちらは英語の資料となっております。それからもう一つの資料は、日本語で英語の資料の内容を、アウトライン的にまとめたものです。それは別の論集に出しておりましたので、そこから関係がありそうなところだけをつなぎ、自分の論文ですから、部位的に勝手に切りとって来ました。それらを参考に、お話をさせていただきたいと思います。宜しくお願い致します。
 私は先ほど、ねんごろな紹介をしていただきましたように、最初の15年間、福岡県内の高等学校で、英語の教員として教壇に立ちました。その後29年間、大学のほうで教鞭をとっておりまして、北九大には13年前に、正式に戻ってまいりました。しかし、その前から北九大には非常勤で、ずっと来ておりましたので、母校の北九大では25年間ほど、ご縁をいただいております。これからの話の順序としまして、2・3・4を簡単に片付けて、1のほうに移らせていただこうと思います。
 「私の英語学習法」を語るには、お2人の私の恩師を抜きにしては語れません。私は実用英語の運用能力、つまり通訳のことですが、こういったものの技術を高めるために2つのことを忘れられません。1つは河上道夫先生という先生のことですが、この方は北九大の教授でした。後に、広島女子大学の学長を2期勤められて、現在87歳です。下関のほうで奥様とお2人で、元気に生活をされております。
 この先生から私が学んだことは、通訳の実際というものでした。河上教授は学生の前で、通訳を実演してくださり、その見事な実技に感動しました。それから先生にずっとつきまして、12年間、先生と共に毎年夏には、「あしや英語セミナー」というのを開きまして、全国から100名ほどの中学、高等学校の英語の先生が集まりました。それに全国の大学のネイティブスピーカー、アメリカ人、イギリス人、カナダ人、そういった方々を、10人ほど招待しまして、5泊6日で朝から晩まで実践英語のセミナーを実施しました。12年間、そういうことやりまして、河上道夫先生の持っている、いろいろな実践英語の技術を私は学ばせていただきました。
 もう一つは、英語の実用運用能力だけではなくて、大学の教壇に立つたり、あるいは、受験指導するときに、とても大事なことは、英語の読む力、書く力です。これがしたたかでないと、東大、京大を受ける受験生たちの、本格的な指導はできません。そこで私が出会いましたのは、故待鳥又喜教授でした。この方は「九州アメリカ文学会」の創設者の一人です。この先生のお宅に、又、不思議なことに、ぴたり12年間、河上先生とのご縁と同じように、ぴたり12年間、私は待鳥先生のお宅に、お世話になりました。毎週土曜日の午後2時半から6時まで、難解なアメリカ文学を原書で読むという会に参加しました。わずか10人足らずの参加者でした。北九大の教授も見えておられました。 当時は、戸畑商業高等学校や小倉高等学校の教員をやりながら、先生のお宅に12年間お世話になりまして、私は徹底的に、しっかりと英語の読解力をつけて頂きました。
 もう一つ有難いことは、北九大のESSに入っていたことです。授業にはあまり出なくて、今考えますと、けしからんことですが、ESSにどっぷりとつかりまして、英語の「討論部門」のディスカッション・セクションに属していました。ですから、ESSの代表として、私が尊敬し私より英語の力があると認めていた椛島昭君、彼は後に高等学校の英語の先生になりましたが、彼と二人で、東京に出かけて行って、全国大学英語討論大会にも出場しました。ところが、東京についた瞬間に、彼が病気になり、私の従兄の家で、2日間寝たきりでした。仕方なく、私は一人で戦い、2対1ですから、当然のことですが、中央大学と法政大学のチームに、コテンパンにやっつけられました。敗北はしましたけれど、いい想い出となっております。
 「私の英語勉強法の基本」は、とにかく英単語、これが第一。それから音読、多読、そして正しい英語を書くと言う、この4つに尽きてしまいます。正しい英語が書ければ、それを正しく発音すれば、正しく英語を話すことができます。 後ほどもう少しお話をさせていただきますが、日本語の資料のほうをご覧ください。これは最初のNO.1、NO.2のところに、書いてありますように、私は朝日新聞の本社から依頼されまして、7回ほど「Point of View」に、「視点」と日本語に訳しますが、日本の英語教育について、書くように依頼されました。数年前に、シリーズということではございませんが、1ヶ月に一回程度投稿させていただきました。その中の1つは、東京学芸大学英文科の入試問題に、採用されまして、その旨の事後通知が学長名で届きました。
 朝日新聞社から、具体的に依頼されたことは、「あなたは一体どうやって英語力を身につけたのか」ということ。「英語を教えている場合に、どういうことを大事にして教えているか」ということでした。更に、「将来の日本の英語教育に対して、改革案があったらお願いしたい」と依頼されました。ですから、7回、ヘラルド・トリビューン朝日International Herald Tribune Asahi)に、英語で投稿しました。7回書きましたので、今回はその中の2つだけを持ってきました。ただ英語で用意しておきましたから、「これはちょっと日本語のレジュメのようなものがないと、分かり難いよ」と周りの者からいわれましたので、急遽日本語のほうを用意いたしました。
 2の「私の英語学習法」に関しての要旨というのがあります。このとおり私がやりましたので、ご覧いただきたいと思います。2-2から英語の第2言語化の重要な礎は、なによりも「英文多読」です。私はこれに尽きると思います。物理的に多量の英文を読み込むことをやらなければならない。そのためには以下の4つのプロセスが必要です。

  1. 単語力を培う 
  2. 正しい発音とイントネーションをマスターする 
  3. 基礎英文法の習得 
  4.  英文多読

 3の「英単語力」に移ります。
 人間の肉体は細胞なくして機能しません。英単語力なくして、英文多読は不可能です。先ず英単語6000語を、是非ものにしなければなりません。俗称「赤尾のマメタン」を暗記しました。綴りと意味を覚えたら、各ページずつ破って捨てました。この過程を1年間続けました。暗記のコツは、早め早めに何度も復習することです。これをしぶとく実践しました。詳しくは、25ページの隣のページを見てください。
 「発音とイントネーション」に関しては、「NHKラジオ英会話」を8年間聴きました。この番組が、私の実用英語の間接的な恩師です。古きよき日の想い出に、これら8年間分のテキストを、20年間机上に積み上げては、深く敬意を表しました。ラジオ英会話の効果を高めるには、録音をしないことです。何時でも聴ける、と思えば注意力が鈍ります。多忙な今日、録音テープを聴きなおすことは、殆どありません。せいぜい、テープが山積みとなり、埃が溜まるだけです。
 「基礎英文法」のことですが、基礎英文法の習得は、中学校の英語のテキストを復讐するのが、一番早い近道です。分厚い英語参考書はご法度。経済的発想から、日本人はすぐ貧乏根性を出して、緻密で詳しいものを買いたがります。これは人情ですが、失敗の元ですね。とにかくどんなに薄くても、英語の文法の全体を、簡単にまとめている本を、短時間でやる方がいいのです。分厚い参考書では、途中で挫折しやすく、敗北感が無意識のうちに、沈殿します。いかなる専門書でも、初めて取りかかる時は、素早く全体像を捕えるために、なるだけ薄い参考書を選ぶべきです。
 ところで、正常な大人なら、中学校1年の英語テキストは、30時間で吸収できます。2年、3年のテキストはそれぞれ50時間でマスターできます。このことは、多くの高等学校の生徒を通して、私が実験済みであります。英語のできない子に対して、夏休みに、こういう勉強の仕方を、20年間実践しています。
 次に「英文多読」ですが、日本の英語教育でこれが最も欠けている部分です。中学校で英文法の基礎を教え高等学校に入ると、直ちにテキストの英文の読み物が急に英語圏の大人向けのレベルになっているのです。英語圏に於ける小学校から中学校までの英文の読み物が、完全に欠落したままなのです。ここに日本の英語教育の1つの大きな「落とし穴」があると思います。
 これを補うために、私は“The Happy Prince”や、「幸福な王子」はフランス語で書かれているのを、英語で訳したものですが、 ハーンの Gothic tales や「幽霊物語」や“Fifty Famous Short Stories Retold”などを、次々と読みました。「幸福な王子」“The Happy Prince”は、辞書を片手に、独力で読み上げた最初の原書です。この時の満足感と自信から、毎日、やさしい英文を、とにかく20ページ読むことにしました。分からないところは、ぶっ飛ばしても、物理的に20ページ読む。とにかく多読ですね、これをやりました。
 大学生になって、旧小倉アメリカンセンターの破棄する“Newsweek”を、森若敏子様から頂きました。森若さんはもうおられませんが、「あなた捨てるけれど、いりませんか」といわれ、5年間分の“Newsweek”を、250冊ほど戴きました。これらの週刊誌を、文字通り乱読しまして、ノートを取りながら貪り読みました。これは北九大の3・4年生の時です。そして卒論は、『“Newsweek”に観られる辞書にない英語表現辞典』を、個人的に作成し提出しました。例えば、「Silver parachute」というのがあります。当時は、日本の辞書にずっと載っていなかったのです。ところが250冊の中に16回出てくるのです。それは「天下り人事」という意味です。「Golden parachute」ではなく、「Silver parachute」ですね。そういったものを整理して、44年前に私は自分なりに、新しい辞書を作りました。卒論はそれを出しました。
 これ以外に聖書を精読し、見事な表現と知恵に溢れた個所を、ノートに書き写し、暗記しては、レポートや英文の手紙に借用しました。それらが私の現在の英語力の血肉となっています。次に19世紀アメリカ文学研究対象作家、ホーソーン、メルヴィル、ジェイムズ、そして20世紀の作家である、フォークナーの作品を、私は殆ど読み上げました。
 戸畑図書館で今年(平成22年)4月から、毎月一回、アメリカ文学の読書会をやっています。そこで今月は、11月20日の一週間前に取り上げましたのは、フォークナーのLight in August (8月の光)」、先月は「An American Tragedy(アメリカの悲劇)」で、著者はドライザーです。これは原書で約1000ページです。「Light in August」は480ページくらいです。これらの作品について、お話しをする前に、もう一度原書で読み返しますが、そういったふうに、膨大な英文多読というものをやらなければ、文学作品を語ることはできません。読み返さないと、内容を忘れていますし、新たな感動が湧きあがってこないからです。語る人が感動していなければ、文学作品の魅力を,聴き手に伝えることはできません。
 しかし多忙な現代のビジネスマンや、一般の大学生には、2つの理由から、いまや自助論の古典的なものを、数冊だけ勧めています。先ず、英語の文体が簡略にして平易であり、頻繁に辞書を引く必要はないからです。更に、内容が人間性への洞察力を深め、政治、経済、商取引への理解力を高めてくれるからです。私はこのような英文多読用原書の自助論を、一覧表にして挙げております。
 以下に数冊を紹介致します。

  1. Dale Carnegie, How to Win Friends and Influence People,
    どのようにして友達を作り、そして人々に影響を与えるかを、非常に易しい英語で書いています。
  1.  Dr. Joseph Murphy, The Power of Your Subconscious Mind,
    この本も現代英語で読みやすく、実生活の知恵にあふれています。
  1.  Bill Clinton, My Life
    少年時代の逸話と政治理念が面白く、英語は論理明快です。
  1.  Hillary Rodham Clinton, Living History
    ヒラリーさんの英語は、粘着力があり、やや詩的です。
    上記の書籍は、どれも簡単に入手できます。お勧めの原書です。英文多読力の向上は、時間に正直でかけた時間に、そのまま比例します。
3  「英語の教員はどうあるべきか」ということについて、私の考えをラルド・トリビューンに投稿したことをまとめておりますので、資料をご覧ください。英語教師の基本的な条件は4つです。私の体験から、これらの4つが欠けている人は、英語の教員にあまりふさわしくないのではないか、ということです。
  1. 声が大きいこと。声が小さかったら困ります。
  2. 英語を教えることが好きなこと。
  3. 英語の学習そのものを何よりも好きなこと。  
  4. 情熱的で温かい人柄。

 情熱的で温かい人柄は、愛情と書き換えてもいいと思います。教員というのは他の職業と違いますから、やはりロマンスを語れる人でないとダメだと思います。ロマンスというのは何かといいますと、習っている子供たちに、この先生から習ったら、僕は英語ができるようになるかもしれない、という夢や希望を授けられる教員が、ロマンスを語る資格のある教員だと思います。それには愛情が無くてはいけない、と考えています。そこで、

  1. について:語学教師は、発音とかイントネーションを指導しますから、パンチの効いた授業をすべきであって、声の小さい教員は、いかに内容がよくても、学生が困ります。そのために、虚弱体質の私は、40年ほど前から、ジョギングをし続けています。お陰で、体脂肪10・4%、体重54−55Kg、血圧55−82で、フルマラソンは5時間を越え始めました。いいたいことは、英語の教員であれば体力が必要ですよ。なぜ体力が必要かというと、授業中にパンチのある授業でないと、しらけるからです。
  2. について:英語教員として極めて重要なことは、教えることが好きなことです。嫌だけど、湖口を凌ぐためにのみ、教壇に立つことを、私はしません。それでは学生が困ります。教員は須らくロマンチストであるべきです。これは私の教育理念の1つです。体力と情熱が去ったとき、私は教壇を去ります。私は満70歳を超えまして、やがて71歳になります。しかし、体力と情熱が続く限り、教壇には立ちたいと願っています。44年間、教壇と心身一体で生きてきましたので、教壇を去れば、確かに息はしているが、精神的には死んでいるからです。「生きる」ことと「生きている」ことは違います。ただ植物のように、医学的な器具や薬だけで生きているのは、死者たちよりも罪深いと思うのです。

 何はともあれ、教育者は人類の未来を形成するという、神聖な使命感と強い誇りを抱いて、教壇に立つべきです。これは私の母が元小学校の教員で、叔母が中学校の数学教員でしたから、2人からいつも言われていたことですが、私はこの見識に全面的に賛同し、継承しています。
 人類の未来を形成するには、2つのことを心がけてきたつもりです。
 先ずは、学生にしっかりと、先人が蓄積した知識を与えることです。そのために、教員はしっかりと勉強して準備をし、教壇に立つべきです。次に、学生たちの魂を磨くことですが、これについては、時間の関係上省略致します。
 授業の準備について大切なのは、授業のポイントを明確にして、誠実に教えることです。誇大宣伝をせず、“小さな船出で、大きな効果”を狙うことです。教育効果は、数値では判らないものです。それを数値化していろいろとやっていても、内容が伴わない場合があるので危険です。
 MIT、(Massachusetts Institute of Technology)マサチューセッツ工科大学、というのがあります。ある日、そこのキャンパスを歩いていて気がついたのは、「大学の教員は、こういうことに心掛けよ」というパンフレットが在ったことです。それ読んでみましたら、何と1950年に出したパンフレットでした。その中の一つに「教えるときの今日のポイントを明確にせよ」とありました。私はそれを見て、大事なことは、天下の名門MITの大学の先生に対してすら、こういうことを1950年から指導しているのか、とつくづく感激しました。これは分かりやすい授業の鉄則ですね。では、具体的に私の英語の授業ではどうしているかを、ちょっとお話いたします。
 私は「ベルサット運動」「毎回テストと添削」を実施してきました。つまり、ベルがなると、サット教室に入り、「ベルサット運動」を実践し、時間の無駄をせずに教えます。時間を無駄にしないために、大学院の授業などは、夜の6時から始まりますが、私は5時から始めています。これは行き過ぎだとも思うのですが、受講生が一心不乱に勉強して来ますので、遣り甲斐があります。次に大事なことは、学生の英語力を培うのは「添削」と「テスト」です。これがなければ、着実に英語力を付けるのは、無理だと思います。レポートの添削返却は、アメリカの大学では、ごく当たり前のことです。しかし、日本の大学にいる外国人教師でも、殆ど添削をしません。日本人の英語教員の殆どが、そうしないからです。
 私は小倉と東筑高等学校で、正規の授業18時間、早朝課外3時間、午後授業終わった後の課外を合わせると、週24時間担当したこともあります。それでも毎回テストをし、必ず返却する。これを実践してきました。本当に体力が要りますね。日曜日も朝から晩まで、添削していました。とにかく大変でしたね。思いますのに、外国語を鍛えるのは、軍隊を鍛えるのと同じで、勿論、軍隊は無いほうがいいに決まってはいますが、平素から鍛えあげて、いつでも使えるようにしておくべきです。“馬を水のところに連れて行くことは出来るが、水を呑ませることは出来ない”という諺があります。つまり、英語を学生たちに教えることは出来るが、分からせることも、使わせることも出来ない、では困るのです。多年教員を観てきますと、三種類あるようです;説明型。確かに教材を説明しています。解らせ型。ポイントは解らせています。解らせて、尚且つ、自分のものにさせている、理想的な英語教員型です。どうも3種類あるみたいです。3番目の教員になりたいというのが、私の願いであります。
 「英語実力培訓」について、ちょっとだけお話します。培訓という言葉は、日本語には無いのですが、中国の大連外国語大学には、「大連培訓センター」という標識がありました。培って鍛えるという考えは,真に英語教育には相応しいと思いまして、私はこれを使うようにしたのです。つまり、「音読」と「小テスト」と「添削」をやって、学生の英語実践力をつけていくということを、目指しています。大連外国語大の学生諸君は、早朝の5時頃から、キャンパスのあちこちで、英語のテキストの音読をやっていました。この迫力には脱帽し、心から敬意を表しました。
 私はビデオとTVを用いる視覚授業も、基本的にはやりません。これを使えば教員の側は多少楽でしょうが、学生の実力はあまり向上しません。何故なら画面を観れば半分以上分かった気分になり、必ずしも本物の英語力はついていないからです。重要なのは、正しい英語が書けるようにすべきなのです。そうすれば、それを正しく音声化すれば、正しく伝えることが出来るからです。
 それが私の英語教育の揺るぎない信念ですし、最終目的です。
 最近、海外へ留学した若者たちが、結構流暢に英語で話すようになりました。とてもいいことです。しかし、英語を話すことと書くことは、概ね別問題です。文法・綴り・論理性・語感などが、書く英語には必要で、これらのバランスが崩れると、田舎の親父が漢文を使ったように、奇妙な英語になってしまうのです。だから、添削指導が必要です。これには、再度繰り返しますが、途方も無い時間と体力と精神的エネルギーが必要です。とは言え、数年間実践すれば、これも職人技となります。案外要領よくやれるようになるものです。しかし、添削指導を非常勤講師には頼めません。時間外の労働を強いることになるからです。
 「なによりも英語好きであること」、これは英語教員のプロとして、3番目に必要なことです。英語のためなら3度の食事を2度に減らしても構わない、と言うほど熱中することが望ましいのです。原書を読み出したら、止められない。英語放送を聴きだしたら止められない。このような英語好きの教員は、学生たちが本能的に判るようです。だから、いつも学生たちが、英語の質問や進学・海外留学・英語学習の相談に来ます。少なくとも、私の研究室に、学生や卒業生が相談に、一人も来ない週は、殆どありません。多分に私の偏見でしょうが、このような英語好きな人々を、「善人」と看做しています。何故ならば、英語の学習は、川上に向かって船を漕ぐようなものであるから、現状の英語力を維持するだけでも、漕がねば流されます。本格的な英語力の修得は、厳しく、苦しい、天まで続く修行です。本物の英語力を培うには、酒を飲み、品よく歌い踊り、遊びまわる暇はないのです。しかし、語学修得はそれ自体が、素晴らしい娯楽でもあり、充実感をもたらすことも、また真実であります。この喜びは、他のいかなる娯楽が束になって、攻撃してこようとも、打ち負かされることはありません。と言うわけで、英語を本格的に修得するには、寸暇も惜しくなり、他者を憎んだり、恨んだり、策略を講じる暇もありません。その結果、善人となるのです。英語を専攻しながら、陰険で意地悪で策略を凝らす人間は、もしいるとすれば、概ね偽物でインチキです。

5  以上述べたように、英語教員のプロを目指せば、健康となり、善人となります。これが副産物として付随するのですから、有難いと思います。

 「情熱的で温かい人柄」は、英語教師として重要な,欠くべからざる条件です。英語教育の技術や、教材の選択に勝るものです。外国語だから間違って当然だ、と言う原則を抱き、学生に対して忍耐強く心温かく接しなければなりません。英語教員にも、T.P.O(Time、Place、Opportunity)が大事だと思っています。つまり、学生を注意するときのタイミング、場所、何処で注意するかを考えなくてはなりません。皆が授業を受けているところで、間違ったら鬼の首を取ったように、その子を皆がいる前で、「あなたまだそんな間違いをしているのか」と言いますと、ガクッと来ますね。そういうことを言ってはいけないのです。TPOが大事です。どういう機会を捉えて学生を注意するのか、これが非常に大事です。 私が実際に目撃したことですが、非常に優秀な学生が、ある先生に質問をしていたのです。受験校ですが、そうすると、その先生は、「君はまだこんなことが解らないのか、そんなことで、東大に行ける訳ないだろう」と怒っていました。そういうのが三回続けば、学生は本当にダメになります。私はそういうときは、やはり私が解らないような問題を持ってくることもありますよ。そういう時は、じっと2人で考えて、学生の目を見て「うん、難しいね。しかし君ならわかるんじゃないか・・」と言ってあげます。そうすると、学生は一生懸命考えます。そして「先生!解った」と机を叩くのが出てきます。「そうね、言ってごらん」と促すと、本当に正解になっている。「さすが、君だね!」と言って、誉めてあげます。私たちの使命の1つは、彼らの力を引き出して、上昇気流に乗せてやるということだと思います。
 ところで、私はできる学生たちだけを、教えているのではありません。ボランティア活動として、福岡県内の英語嫌いの中学3年生へ、「基礎英語学習法」の集中講座を実践してきました。夏休み期間中の僅か2日間の特訓ですが、効果は信じがたいほど著しいのです。事の始まりは、20年前に、私の中学時代の恩師が、私はこの先生に脱帽し敬意を表していますが、山下ミサヲという社会科の先生ですが、この先生は宗教関係の施設の子供たちや、経済的な事情で、塾にも行けず、家庭教師にも付けない生徒たちを、毎年30名ほど集めてきました。殆どが英語の基礎的なこともわからず、中には人生を早々と降りているような子もいました。こうして出会った若者たちは、300〜400名近くになります。時々彼らが帰省しますと、食事会をします。このボランティア活動は、たった2日間ですよ。初日の午前中は、「なぜ自分たちはここに居るのか。何のために英語を学ぶのか」を、徹底的に話し合います。英語を学ぶ動機の確立が重要で、堅実な動機がなければ、どんなに教え込んでも、倒れたコップに水を注ぐに等しいからです。動機が確りと胸に収まれば、目的は半ば達したことになります。私は小学校のころ母からいつも言われました。
 「勉強というのはコップよ、コップに水を注ぐのが教育よ。だからコップが倒れていたら、いくら先生が水を注いでもこぼれる。やる気をおこさせる。動機をしっかりさせる。それができない先生はプロではない。」という意味のことを、母から言われていました。ですから英語が嫌いで来ている子供たちを、どうやって勉強をする気にさせるかが、非常に大事です。今年は8月14・15の両日にやってきました。“先生、今年で20回目です”と言われました。満70歳で20回目というのですから、51歳から始めたことになります。正直なところ、どうしたらやる気をおこさせるか、これは難しいですね。ですが、午前中話をしていましたら、子供たちの気持ちが変わります。
 変える理由は、一番大きな理由ですね、損得を目の前に示すことです。彼らに、高邁な哲学をいろいろ言っても仕方がありません。いろいろと文句を言います。その度に、私は「そりゃ、そうや。あなたのいうのも、一理あるね・・」と全部聴きます。「だけど、あと君は何年生きるかい?そうそう、それだけ長く生きるだろう。その時に、損をして生きるのがいいね、得するのがいいね」という話をします。彼らは確かに、英語を一生使わないかもしれません。「しかし、君たちは高等学校に行く時、大学へ行く時は、英語が重要科目として競りあがっているだろう。矛盾していると思うよね。だけど、ここで負けたら、いい高校にも、いい大学にも行けなくて、損をすることは無いね。」という話をします。そうすると子供たちは、「先生、俺たち、今からやっても間に合う?」と聞いてきます。「間に合わなかったら、僕はここに来ないよ・・」と言います。
 これらの問答が終わり、食事をした後、彼らの目の色は変わります。最初に1から10までの発音を教えます。“えー、中学3年生でそんなことやっているの”と思うかも知れませんが、そういう子供たちが集まっているのです。割れるような大きな声で発音します。1から10まで全員綴れるようになります。「先ず、1から3まで書けるようにしようね。紙を1から10まで、“紙”は発音が“神”様と同じだから、大切に使うよ。」と言って、白いところが無いように、真っ黒になるまで書かせます。書けるようになると、一人一人個人的にテストをしてやり、万点を取ればグルグルと赤丸をして、100と大きく書いてあげます。そうしますと、こぶしを握り締め、天に突き上げ「やった!」と言っている子もいます。この瞬間は神々しく、美しいですね。人間が一つのことに、情熱的に取り組んでいるときの姿は、なんとも綺麗です。彼らは一生懸命に書きます。今年の結果は、全員1から100万までは、どの数字でも書けるようになりました。1月から12月、春夏秋冬、月曜から日曜まで全部、彼らは綴れるようになりました。勉強の仕方がわかり、一度自信を持った中学生の記憶力は、ぐんぐん伸びます。後は簡単な英文法の勉強の仕方と、重要英熟語を教えます。そうやって立ち上がっていくこの子供たちを観ていますと、私はいい仕事に就いたなと、自己満足かも知れませんが、ひしひしと胸に染みる喜びに、浸っております。私はこういうことをやってきましたが、数年前に、彼らの1人が北九大の文学部に入学し、女子大生ですが、見事に卒業して行きました。
 中にはこういう中学生もいました。昼に食事をしていると、自分の肩で僕をつつき、「先生俺のこと知っとる?」「初めてやから知らないが・・」と言いました。「俺ね、門司のゴミ箱の中に、生まれたとき、新聞紙に包まれて捨てられていたんや。ごみ掃除の人が来て、なんか動いているので、開けてみたら俺がいた」と話してくれました。喉が詰まり、涙が出ました。私はそういう子供たちに出会う機会を与えて下さった山下ミサヲ先生と、いろんな方たちに感謝しています。再度繰り返しますが、教える側の人格というのが、英語の教員にとって非常に大事で、私はTPOも生きていると思います。何をどう指導するか、タイミング、場所、何処を捉えて、気力をつけて、若者たちをどう立ち上がらせるか、ということが大事だと思うのです。
 次に、「日本の英語教育への提言」をさせていただきたいと思います。

4  第一に、英語教育を「国策」として位置づけるべきだと主張します。日本は小さな国です。70%が山、わずか30%の平地に約1億2600万人口が必死に、住んでいます。日本の未来は、近隣諸国の方々の暖かい心を寄せて頂くこと、それと世界中の国々から、支えていただかなければいけません。そのためには、コミュニケーション能力の育成が、最も大事だと思います。世界の人々に信用され、安心されるためにも、日本の憲法第9条を守って、私たちが平和の国に徹することは、非常に大事なことだと思っています。ハーバード大学の客員研究員で滞在しました時に、私は「中世の歴史と戦争」というコースの授業で、プレゼンテーションをしましたので、憲法第9条についてお話をしました。“憲法第9条は、日本の憲法を作る際に、アメリカが私たちに押し付けてきたものですが、今は、これが日本の貴重な財産の1つです。アメリカの憲法にも入れたらどうですか。ペンタゴンというところを「平和省」と名前を変えたらどうですか”と申し上げました。すると、大きな拍手がおこりました。いろんなことを申し上げましたが、私としては、国策として英語教育を位置づけるべきだと思っています。

 次に、全ての小・中・高の英語教員を、一年間海外で研修させるべきだと主張します。現在ALT(Assistant Language Teacher)が日本に来ています。そのための年間の費用が、約620億円だそうです。それだけのお金で、日本の英語教育に貢献しているのは有難いのですが、これらの方々は、英語圏の大学を出ていれば、専門は何も問われません。ただそれだけで、日本の中学校、高等学校の教壇に立てるのです。これはちょっと問題があるのではないかと思っています。本国で大学を卒業してから、正規の就職をきちっと体験していませんし、社会的経験が乏しく、人生の経験も豊かではありません。教員免許もない、専門は何でもよい、ただ英語圏の大学を卒業しただけで、日本の教壇に立っている若者たちです。問題がありませんかね。私はそれよりも、英語圏で退職した教員の60歳以上の方々を、ALTでお迎えする方がいいと考えています。彼らは一応年金がありますから、若い方達へ1ヶ月30万払っているのなら、同じ費用で元教員の退職者たちに来ていただく方が、いいと思います。人生の経験と教えた経験があります。こういう方は、英語以外の文化的・社会的な情報も豊かです。
 次に提案したいと思いますのは、高等学校や大学入試科目から英語を外すことです。ただし、大学受験資格としての資格がいります。18歳以上であるとか、TOEFLは何点以上とか、基準を決めておきますと、受験生は何回でも、入試前に、公的英語資格試験を受けられるわけです。大学側も、奇妙奇天烈な入試問題を作らなくてもよくなります。具体的には、学部別、或いは、大学別の基準を設けて、大学入試資格としてそれを示せばいいのです。英語力が公的な尺度で計られ、大学入試前にある程度、国際的に通用する英語力が身についていると考えられます。
 もう1つ提案致しますね。全国大学英語教員免許状制度を設置することです。その中に、中学で一年間、高校で2年間の、英語の授業体験を課すことです。入れることです。これはとても大事なことと思います。恐らくいろんな議論をかもし出すかもしれません。しかし、全国の大学の英語教員には、やはり英語教員としての免許状がいるのではないかと思います。小・中・高の先生方には、必ず免許状がいるのです。小・中・高で英語を教えている人の免許状は、大学の先生が出しています。現状は、その大学の先生が、何も免許状を持たなくていいのです。高等学校の先生になるために、採用試験を受けますと、非常に難しくて、年度にもよりますが、10倍20倍の競争率の時もあります。時代によって違いますが、ところが、そういう難しい試験に受からないから、一時的に就職避難口として、大学院に入ってくる院生もかなりいるわけですね。最近は、特にそのような傾向が、強くなっています。ところが、そういう人たちがいつの間にか、大学の先生になって、中学・高等学校教員免許状を出すというのは、ちょっと問題があるのではないかと思います。皆さんは、どう思いますか。いいですか、昔の大学と今の大学教育の環境は、大きく違うのです。女性の進学率が51%、男性49%の時代ですよ。そういう時代に、大学の教材見てください。目を覆いたくなるような、悲しい現状があります。
 小倉や東筑高等学校で受験のために使っていた、これは四十数年前の話ですが、ナサニエル・ホーソーンの短編の一部をとって来て、京都大学入試問題に出しているわけです。今それを大学の法学部、経済学部、工学部の英語の授業で使ったら、付いて来れる学生は殆どいません。じゃあ、今どういうのを英語のテキストで使っているかといいますと、良質な古典的文体の英語の作品は使わずに、先ほどから、申しています、例のALTとか何とかで日本に来て、もう本国に帰るのはいや、日本で大事にされたから、今さら本国の厳しい社会に生きるのはいや、それで日本で英会話学校の先生とか、運よく大学の教員になっている方たちが、日本を観て、異文化的現象に、こう思うああ思うと、いったようなことを書いた、すこぶる易しい英語が、大学のテキストなっているのです。そういうものを、教材としていますので、目を覆いたくなるようなものですし、本当に底の浅い、内容の乏しいものになっています。このような学生諸君を、担当するのですから、大学の先生方は、一度は、中学・高校の免許を持って教えていた方であるべきだ、と思うのです。これに対して、多くの大学の先生方は、大いに反論し、乘口はけしからん、と批判します。ですから、満月の夜は丸腰では歩けません。私は以上のように、いろいろなことを申し上げました。纏めますと、2の柱では、私自身の過去。3では現状。4では未来について、という形で大きく分けまして、過去、現在、未来に亙って、私なりの独断に基づいたお話しをさせていただきました。
 これからは第一の項目について、お話し致します。
 年を取りますと、私は70歳を超えましたが、だんだん体が硬くなります。柔軟体操をしなければならないようになります。ソール・ベローというアメリカの作家が、「人間は年を取ると、2つ硬くなるものがある。一つはその人の魂、ものの考え方がだんだん硬くなる。それに比例して、体まで硬くなる」と言っています。それを読んだ時、自分のことを言われているのではないかと思いました。それで、自分で背骨柔軟機と言うのを作りました。背骨と言うのはbackboneと日本人は言っていますが、正しくはspinal cord (column)というのです。“これが柔軟で真っ直ぐにしておれば、成人病はかかりません”という記事を、私が38歳のとき、今から約32年前に、月刊誌リーダース・ダイジェストに出ました。この月刊誌を多年読んでいたのですが、それによりますと、spinal cordとは、背骨から神経が紐の束のように出ていて、その神経の紐が内臓と結びついているそうです。背骨が歪んだり、曲がったりしますと、自然と神経の紐を引っ張って、内臓を正常の位置から狂わせるそうです。すると、内臓同志が引き寄せられ、くっつき、血液の流れが悪くなり、そこから癌がおこりますよ。簡単にいえば、そういう内容の記事でした。
 もっとも38歳の時、既に、私は生きていることの喜びをかみしめていたのです。何故かといいますと、17歳のとき黒崎の街を歩いていましたら、“おーい、あんた、あんた、こっちへ来なさい。”と、ある中年の人相見の男性が、私を見て声をかけてきまして、“君は広い額をしているね。いい人相だよ。君のような人相は、100万人に1人しかいないよ。しかし、君32歳で死ぬね・・」とあっさりと、こともなげに言ったからです。ですから、リーダース・ダイジェストの記事を読んだ時は、既に、人相見の予測よりも、6年長生きしていたのです。だけど本当に死ぬかどうか、子供が2人いましたから、32歳で死んだら困るという、心配がありました。
 そんな気持ちを払しょくするために、32歳の時、文部省の海外通訳の試験を受けて、私は通訳として世界を廻る仕事をさせていただきました。その時の試験官は宍戸良平さんで、この方を今でも忘れません。文部省視学官でした。彼が試験の結果を発表し、「Mr.  Noriguchi is NO.1」と大きな会場で、発表した時、感動しました。こうして、世界教育調査団の通訳に行かせていただきました。その後、私は谷前市長の、皆さんご存知でしょうが、例の高潔な市長さんの通訳を、海外からお客様がお見えになった時だけ、声がかかりまして、大学に勤めながら、お手伝いをさせていただきました。国際市長会議がありまして、その時も、谷前市長ご夫妻と安川寛さんご夫妻と一緒に、バージニア州ノーフォークのウイリアムバーグで会議がありましたので、参加させていただきました。英語ができるというだけで、そういう国際的な場に出席し、個人的にはアメリカのほうへ、20回くらい行き来しており、大学院もアメリカですから、非常に勉強になりました。これも考えてみたら、北九大のESSで一生懸命勉強し、友達と英検の1級に通りましたが、そのお陰だと感謝しています。
 この受験に関しましても、忘れられない想い出があります。当時1級の面接は大阪と東京しかなかったのです。貧乏でしたから大阪まで夜行で行って、朝9時ごろ大阪に着いて、試験に行きましたら、頭がボーとして、おまけに風邪まで引いて、見事に落ちました。半年後に再挑戦しました。今度は母に頼んで、ホテル代をもらって、東京で受けようと思い、夕方の5時ごろ東京駅に着きました。東大前の本屋街や神保町の古本屋街を、見て回りました。すると、買いたい英語の本ばかりで、ついついわれ知らず買ってしまい、ホテル代が無くなりました。立教大学が試験場なので、夜遅く立教大に行き、校舎の建物の中に入りました。廊下の行き詰まりにカーテンが在り、ソファーも在りましたので、下着一枚で寝ていました。真夜中に夜警さんから、目を懐中電灯で照らされ、火事になったのかと驚きました。夜警さんからは、やさしく怒られましたが、「こっちに来い」と言われ、彼の後に従い4畳半の夜警さんの部屋に連れて行かれました。「明日試験だろ。よく休め。」と休ませて頂きました。朝起きましたら、味噌汁とご飯、卵焼きを作って下さっていました。とにかく、私はうれしかったです。面接は、ジェームス・ハリスという試験官が居まして、3人の試験官を前にして、何とか私は合格しました。それから高等学校の教員になり、修学旅行で2回東京に行くことがありましたので、その時に、その夜警さんを訪問して、ねんごろにお礼を申し上げました。そういうドラマ的なことが、私の頭の中で今も消えません。素晴らしい方との出会いでした。
 そういうことを考えますと、“人生とはなんぞや”との思いに至ります。教員生活を振り返ってみますと、時間というものが経っても、過去から現在までの時間が経っても、時間には二つの特徴があるな、と思い始めました。1つは時間の凍結です。もう1つは、時間の流動ですね。時間が凍結している。つまり、記憶です。しかし、現在は待ったなし、とにかく皆様方と、こうしてお話している一分一秒、一刻、一刻が流動しています。流れて動いています。これが現実です。過去の思い出と言うのが、記憶として凍結して、これが固定して、時間が固定してしまいます。そしてもう1つは、時間には流動という特質が、あるように思えてなりません。
 私は自分の人生を、バスの中の乗客に譬えています。バスの運転手は前を向いて運転し、私は逆に後ろ向きに座っていると考えます。そして、座席から過ぎ行く過去の景色を見ます。あの銀杏はきれい。あそこに一人車椅子の方がいたね。そういうのが心に残ります。バスはどんどん前に進みます。これが未来で、私にはなに1つ見えません。過去しか見えません。過去は遠景となり、小さくなり、殆どが消えてしまいます。しかし、強烈なものは凍結して、記憶として固定していくのです。このように、私の人生はバスでの移動だな、という気がします。未来のことは1つもわからない。わからないから有難い。わらないから、何が起こるか、わくわくします。楽しいですね。はっきりわかっていて、例の小説のファウストのように、何月何日何時何分に、お前さんは死ぬよ、ということが分かっていたら、後何日、後何分、後何秒と、恐怖に慄き、やる気が起こらなくなるじゃないでしょうか。明日、何が起こるかわからない。これが楽しみの根源ですね。
 そこで私は17歳のとき32歳で死ぬといわれたのに、まだ生きて70歳過ぎ、皆様方と、こうしたつかの間のご縁ですが、お話できて有難いな、と大自然に感謝いたします。したがって、毎朝、起きる度に、“Any day Iwake up is a fine day.”とつくづく思います。この言葉は、私が妻と一緒にボストンの北駅で、セイラム行きの列車を待っているときに、横に座っていた骨皮筋衛門の老人が、しゃべった言葉です。「目覚めたどんな日でも、晴れの日だ」というほどの意味です。“Any”という単語は、ゼロから無限大までを含む、幅の広い言葉です。ですから、天気の日も、嵐の日も、寒い日でも、全くそれに関係なく、目覚めれば、素晴らしい日だ。晴れた日だと、彼は言ったのです。妻に捨てられも、胃癌で3回手術をしても、こうして生きて、ひと様と話ができ、生きていること自体が、素晴らしいと、この骨皮筋衛門さんが、言ったのです。すぐにメモをとりました。「What a wonderful phrase。 I like it。」(すばらしいですね。持って帰って皆さんに伝えますよ。)と言いました。ハーバード大学へ行った甲斐がありました。1〜2冊の本を読んだくらいの価値が、私にはあったと思いました。つまり、「生きていることはすばらしい」という意味です。しかし、「生きること」と「生きていること」は違いますね。ただ、植物のように、機会や薬の力だけで生きているのでは、死者よりも罪深いかもしれません。生きている限り、前向きに明るく、陽気に、屈託のない生活を営み、何とか、他者へのお役に立ちたいものです。
 あるとき、教え子の結婚式に行きました。披露宴の終わりごろに、その花嫁さんが、お父さんとお母さんに対して、感謝の言葉を述べました。彼女はその中で、「私たちは、毎日笑って一日が終われるようにします。お父さん、お母さん、安心してください・・」と述べました。それを聞いてすばらしいスピーチだと、メモを取りました。このスピーチから、「一回も笑いのない日は、人生で無駄な1日だ」と思い始めました。それを英語で、“Any day without a single laughter is a useless one in life.”と訳しています。ですから、@Any day I wake up is a fine day. AAny day without a single laughter is a useless one in life. この2つを心にとめて、日々実践しますと、不思議ですが、運命の幸運化が止められません。これから先も、自分の体力、あるいは英語力で、お役に立つことがあれば、皆様方のために貢献いたします。喜び勇んで、やらせていただきたいと思う毎日でございます。
 “MY朝誕生日”という考え方を、ご紹介いたします。それはどういうことかと申しますと、毎朝の朝と言う字をよく見てください。十月十日、「とつきとおか」となっています。女性の方は分かると思いますが、胎児がお腹に宿るのは十月十日間です。朝はこういう風に、新しい生命の誕生日なのだというわけです。これは私が言ったのではありません。ある随筆家が言ったのですが、いいこと言っているなとおもいまして、皆さん方に紹介したのです。私の考えとほぼ同じです。毎朝、新たなる誕生日を迎えて、はつらつと爽やかに、生きたいものです。
 ところで、「北九大アメリカ文学原書講読会」というのを、北九大で毎週土曜日の2時から5時まで、行っています。5時で終わることは案外少ないのですが、皆さん大変優秀な方が多く、私の方が勉強になっております。これは下関市立大学に勤めていた頃から始めまして、今年で22年目になっております。この会は、誰でも入れます。規則が1つだけあります。「規則を作らないこと」という規則です。入会、脱会、自由です。会費は無料です。興味のある方は、いつでもどうぞお越しください。外国語を学習する方は、認知障害やボケにかかり難いと、TVで放送していました。
 もう1つ、「英語実力培訓講座」を実施しています。次回の第10回目は2011年2月28日から3月4日まで、午前10時から夕方の5時まで、全て英語で行います。全学横断的に、学生・院生を10名と市民2名だけを募集します。原書のテキストを1冊読み上げ、それに沿ったペアーデイスカッションとプレゼンテーションをやらせます。今回はデール・カ−ネギーのテキストと聖書、新約聖書全部読もうと、計画しています。二冊のテキスト使って5日間がんばる。これもボランティアでやらせてもらっています。元気だからやれるのだと、我が体力に感謝しています。

2  44年前に私が初めて教職に就いたのは、戸畑商業高等学校でした。最初の年は、担任も何も無いのです。2年目になりまして、私はクラス担任になりました。クラス担任になった時に、戸畑商業で始めて、全校ただ1クラス、2年1組を男子クラスにしたのです。

 戸畑商業は、できて未だ5年しか経っていませんでしたが、その男子クラスの中に、何故そうしたのか判りませんが、3年生に上がれなかった落第生を、7名全部入れました。そして、それを私が担当することになりました。生徒数は56名です。56名の生徒を、私が受け持つことになりました。始業式が終わって、クラスに行きまして、その時の話で次のように言いました。
 「諸君、僕は始めてクラス担任をします。教員の駆け出しです。よろしくお願い致します。この戸畑商業高校で初めて、男子だけのクラスができました。よそのクラスに負けないように、全校で手本になるように、一致団結してやりましょう。」といったのです。20年前に、この話を随筆で書いていますが、クラスには、親分肌の180センチ以上ある大きな、落第生がいたのです。この子が、通路に足をドーンと出し、反り繰り返っています。進級できなかったことに、やや不満だったのでしょう。そう思うのです。そういう生徒が、7人いるのです。そこで“明日は、身上調書と雑巾を2枚、皆いいね。びしっと集めるぞ、忘れるなよ”と言ったのです。そうすると、彼はどういったかと言うと、「先生、忘れたらどうするん?」と聞いてきました。おっとっと、今から忘れた話をするなよと、言いたかったのですが、「今日の明日やから、誰も忘れんだろう。しっかりやってくれよ。」と言ったら、「それでも人間やから、忘れるよ。」と言います。おかしな論理だと思いながら、「忘れたら困るね。」と言いました。「わすれたらどうするん」私はだんだん追い込まれていき、しょうがないから、「びんたや」と言ってしまったのです。私は、父から一回も殴られたこともないのに、生徒たちへ、「びんたや」と言ったのです。喧嘩は小学校の頃から、何度もしましたが。そしたら「それ本気なん」とドスの効いた、低い声で、私を睨みつけ、確かめてきました。ぞっとしました。
 あくる日、身上調書と雑巾忘れたのが、9名いました。落第生7名の中に2名が、新たに仲間入りしているのです。これはいかん。私は勝負だと、真ん中に親分を立たせて、9名に約束を実行しました。真ん中の親分さんのところ来て、顔をじっと見て、“両脚を開け。後ろに手を組め。目をつぶれ。歯をくいしばれ。”と時間をかけました。その直後から、不思議にクラスの雰囲気は、一変し、明るくなりました。一致団決しました。すばらしい効果があがりました。しかし、今だったら、私はクビでしょうね。時効は過ぎているでしょうから、20年ほど前に、戸畑商業の同窓会誌に、このことを書きました。
 このクラスの就職も、今では考えられないくらい、大企業に入っていきました。他の先生だったら、推薦書に1の特長を、私は10倍くらいの付加価値を付けて、準備しました。それを妻がきれいな字で、全部清書してくれました。時代的な環境が影響したと思いますが、皆すいすい決まっていくわけです。関東、関西の大企業に全部入って行きました。そうしますと、彼らが卒業式の日に、どうしたかといいますと、職員室の私のところへ来て、手を握って大男が泣くのです。2回も3回も堂々巡りして、握手をするのです。親分さんが言うには、「中学から僕は嫌われ者で、先生たちは本気で指導してくれなかった。乘口先生だけや。本気で僕を殴ったのは。嬉しかった・・」そんなこと聞くとは思いませんでしたけど、そういうことがありました。私は親から殴られたこともなく、子供を殴って育てることもしません。私にはかわいいペットの「コロちゃん」という柴犬がいます。これにも、絶対暴力を使わない。全て話し合い、「あなたどうするね。ジョギング行くね。」と毎回,聞いてみます。犬は行きたくなければ、きませんから、必ず話し合っています。ですから、1回きりの暴力的な指導が、脳裏に凍結して、確かな想い出として、くっきりと残っております。大いに反省しています。
 次に「おい、北九大ちぞ」の話をさせていただきますこれは戸畑商業高校の校長が、私が学生たちを、殴ったときに私を呼んで、「君すばらしいね。よく本気で指導した。よろしい。だがこれで最後ですよ。もう二度と殴らないように。」「はい、しません。」と約束しました。校長さんは、私をサポートしてくれました。その気持ちがよく分かります。校長は、かつて小倉の教員だったのですが、小倉に戻っていきました。そして1年と1ヵ月後に、1人病気で大ベテランの先生が、急に退職したので、君来ないか、と声がかかりまして、私は小倉高校へ転任しました。それから受験指導が、始まったわけです。
 2年7組のクラスに最初に入ったときに、一番前に座っている男の子が、「先生、出身校は何処ね」と聞くんです。「僕は北九州大学外国語学部米英学科の卒業です」といったら、その子ガクッとした顔して、後ろ向いて「おい、北九大ちぞ」と言ったのです。私自身はどう思われようと、全くかまいませんが、私から学ぶ学生たちの教育効果が上がらずに、ロマンが消えたらいかん、と真剣に考えました。夢と希望が消えたらいかん。よし、勝負だと、又、勝負にこだわったのです。次の時間、「諸君、外国語を勉強するために大事なことはなんだと思いますか?」「発音です」「そうね、そのとおり」「文法です」「そうそれも大事ですね」いろいろいう訳です。「それらの基本に、共通して大事なことが2つあります。なんだと思うか?」シーンとします。やおら、「暗記と繰り返しですよ」と言いました。「暗記と繰り返しを厭う者は、語学とは無縁の人。英語はできんよ。暗記力と繰り返し、これが大事です。」そこで、「どうだい、君たちは、自分の暗記力に自身があるかい?」こう問いかけたのです。小倉は当時東大と京大合わせて、60人くらい受かっていたのです。今はラサールとか、久留米附設に行きますから、1桁台からよくて10数名くらいになっています。
 「君ら自分の記憶力を、一度確かめたらどうか。何処でもいい。どこか教科書、丸暗記した者が、前に出てきて、そのページを書いたらどうか。50分間、これに費やしてもいいぞ。」それからが私の戦略です。「僕も加わっていいよ」と言ったのです。生徒たちは、先生もやるのか、と言う顔をしました。「どのページでもいいよ」と言いましたら、「96ページ」と誰かが言いました。110ページのテキストですから、「よし、96ページ。皆で暗記して、終わった者が、前に出てやろうね」と決定し、私は96ページを、一度ゆっくりと読んで、振り返り、ばーっと板書しました。カンマ、ピリオド、全て間違いなく、書きました。英語の学習は、とにかく暗記と繰り返しと多読です。十分訓練すれば、このようなことができるのです。日本語ではできません。それは何故ですか。英語は構文が、はっきりして関係代名詞とか接続詞とか前置詞で、明快にできているからです。最も、フォークナーのThe Sound and the Fury、という小説は、1ページから約50ページまで、句読点がないのです。こういうものを、暗記するのは無理です。
 このこと以来、学生が驚いて、私に対する、――私の信条としては、威張るな、愚痴るな、仲間を作るな――ですが、私に対する目つきが、変わったようでした。家庭教師をしてください、と言ってくる者が増えました。それはできません。ある母親が質問クラスを設けてください、と自宅の一室を公開してくださいました。1人増え2人増えで、20名くらいなったこともあります。そういった想い出も、頭の中に残っております。
 時間がまいりました。本日は、ご清聴、誠に有難うございました。


資料:ヘラルド・トリビューン朝日の掲載の反応


記事への反応: 私の記事はChinaDailyなど海外の幾つかの新聞にも転載され、世界180ヶ所で、同時販売されました。国内外の読者から、さまざまな反応を受信しましたが、概ね、好意的なものが多いようです。以下に、それらの幾つかを紹介しますが、紙幅と個人情報の見地から、コメント送信者の個人名を省き、要旨のみを示すことにします。

 反応1.How I learned English and the joy it gives meの記事拝読いたしました。 英語教育について、まったく同感です。自戒も含めて、多くの日本人が英語を使いこなせないのは教える方にその能力がないからで、本当に勉強すべきは教師だと思います。授業をTOEICの訓練等とすり替えて、小手先だけのテクニックで、力がついたなどというのは、ただのごまかしに過ぎません。楽をして甘い汁を吸おうとするのは、企業と官僚だけでなく、教師も同罪で、国を挙げて子供たちを騙しているようなものだと思います。しかしながら、(私たち教員が)この流れを食い止められないのも、勉強の時間が十分にないのも現実です。先生のお書きになった記事を読んで、奮起しなければならないのですが。昨日の夜は興奮で目がさえて、眠れませんでした。
 反応2.“Furthermore, immediately after they master basic English grammar, senior high school students are force-fed a diet of intellectual reading materials aimed at adult native speakers. That's why Japanese students inevitably miss out on the middle stage of children's stories and lighter reading materials that native English children enjoy.”とある。われわれはbasic English grammarをやったあとすぐ、高校でintellectual reading materials aimed at adult native speakersを読むことを強制されるので、日本の学生は、the middle stage of children's stories and lighter reading materials that native English children enjoy を読む機会を逃していると筆者の乘口氏はいう。確かに・・・。その「暗号解読」を英語の勉強と長い間思っていたので、読む量が絶対的に不足していたということを、学校を出てから何十年も経ってから知りました。このギャップを埋めるために、筆者はless-demandingな materialを読んだそうですが、 James Baldwinの "Fifty Famous Stories Retold"が初耳だったので、ちょっと興味を持ちAmazonで調べました。3〜5週間待ちである。
 反応3.先生の論文How I learned English and the joy it gives meを拝読させていただきました。期末考査の監督中ではありましたが、先生の御意見には、まったくもって同感です。先生の"words = cells"というお考えにはとても興味深く思いました。確かに、ある行動をとる時、全細胞が機能していれば難なく行えるのですが、部分部分の細胞が機能していなければその行動は上手く行えません。行動=英文読解にたとえるならば、語彙力が少ないと前後関係からの推測で大まかな内容しかつかめません。今まさに生徒たちは大学入試長文問題にウンウン言いながらその内容を掴もうと努力しています。それを如何に指導していくかが、われわれ教師の務めだと思っています。
 現在、3年生を担当していますが、今年初めて東大入試の指導を行っています。京大、一橋は一種の暗号解読みたいなものなので、なんとか対応できるのですが、東大となると、こちらも相当な気合いを入れて臨まなければ、生徒も納得してくれません。私自身も大いに勉強させられます。先生の論文は来年一年生を担当したときに、使わせていただきたいと思います。
 反応4.Hello, Sir
  Thank you for your most recent article.  
I absolutely agree with you about the importance of reading and writing.  The more I learn Japanese, the more I appreciate how important it is to get the reading and writing skills mastered before anything else.  Many people want to take short cuts and just speak a new language but, unless one lives with native-speakers of that language, it is not possible to acquire language without the hard work of reading and writing.  Reading and writing familiarize people with grammatical structures, and gives an insight into the 'mind' of the language.  
I teach English in a high school here in New Zealand and occasionally I will use some French or Latin or Japanese to show students how grammar differs in different languages.  Invariably, the students will ask 'Why do other languages use such-and-such expression? They ask this because they do not know that to speak another language, one must think in that language. Your point about being able to make mistakes without criticism is greatly important.  If people fear making mistakes, then they will not progress.  
I briefly worked at GEOS in Yokohama and something that I loved about younger students was that they were not afraid to make mistakes.  That is why they often picked up language more quickly than older students.  Of course, it is much harder for teenagers and people in their 20s because they are more self-conscious: they do not want to be thought of as stupid.  That is where a good teacher should help by creating an environment where small mistakes are accepted, even fun. Anyway, I could go on for hours.  Many thanks again for your articles.

 反応5.Thank you very much for your article. I completely agree with you, especially with regard to the texts that people learning English must read. I would add to your list of recommended texts the works of Japanese authors. I have just finished reading English translations of short stories by Shouhei Fujisawa - excellent stories, simply told.  Rather than teach a range of complex English literature, lecturers might consider the texts you have recommended along with English translations of Japanese texts.  
Language is a transmitter of culture, so it is important to read texts from the language being studied; however, it is also important for people to see how texts are translated from one language into another.  Reading the translations of Fujisawa's stories makes me want to read them in Japanese.  (Something I will not be able to do for many years, unfortunately.)  Imagine students who have not read Fujisawa in Japanese being introduced to him through English translations!  It might make them want to read more Japanese authors: using English to learn about Japanese history / culture / literature. Thank you again for your article.  
反応6.Dear Professor Noriguchi, I must tell you how much I enjoyed your article! I made copies and will pass it on to my students to inspire them to read and learn French. Most importantly, Americans need to re-connect with the pleasure of reading, that is why your article is so important across borders! As you so correctly said: "Once someone pokes his nose into a book, nothing can end the pleasure of reading." I will take this opportunity to wish you a wonderful and happy new year...one in which we will be able to see each other again either in America or Japan! With warm wishes and eager thoughts of returning soon to Japan
反応7. Dear Professor Noriguchi, Language is fascinating - isn't it! I liked your article very much. Here are some of my own thoughts. I believe reading is a very valuable tool for learning a language. English has a vast vocabulary when compared to other European Languages - three times as many words as both Swedish and French. Most differences exist in the number of "descriptive" words i.e. adjectives and adverbs. This makes English such a colorful language but also increasingly difficult to master. Reading literature can help overcome this as vocabulary is picked up and understood without realizing. For example a concrete surface can be hard, but so can be something that is difficult. When reading; grammar, spelling, the meaning of words and phrases intertwine - providing the basics have been learnt and understood, it should provide a solid tool for learning and progressing.

  However, in my personal opinion, nothing can replace living and learning with natives in an English speaking country. Japan has one of the lowest rates in the world when it comes to sending students abroad for a term or school year. Considering the amount of money Japanese parents spend on extra tuition I don't think the reason is lack of finances, probably more a combination of University entrance tests using "multiple choice" style questions and the Japanese' school year not corresponding with the English speaking world's.
In business, past and present, I have come across many Japanese people who speak "perfect" English, but they have always lived abroad for a year or so, or were educated abroad for a period of time –(I haven't met you yet). In terms of learning other languages, naturally, they should be offered at school. The problem which arises is, how do you determine who has aptitude for a language without using some sort of aptitude test?
It is my belief, that the Japanese society does not place enough value on innate intelligence - we are all born with different skills and different degrees of ability. To master a language you also have to be able to speak it. "Auditory Processing", that is how the brain processes verbal information is vital, there is no way this can be improved by training (This has nothing to do with hearing). You also require vast "Working Memory" to be able to write a language.
Therefore, before anybody spends years attempting to learn Russian or Mandarin, basic testing should be provided at school, establishing that the student has the innate potential for learning languages. My daughter, who is 11, is dyscalculia, i.e. has a learning difficulty with Mathematics, she works very hard to achieve 50 percent in her Math’s exams - in all other subjects she achieves +90 percent - she is top in her year in Science. For me to expect her to achieve those results in Mathematics would be most unreasonable - she is not born with those sets of skills. Naturally, without an aptitude test, I would not be able to understand how my daughter's brain is "wired" and we would probably both be tearing our hair out. I don't believe testing has anything to do with "elitism", it simply establishes what we are likely to be good at, so that realistic expectations can be achieved.

  As we have discussed before, I agree with you that English probably shouldn't be compulsory at school, or for that matter, form part of the entrance exam for a degree in Mathematics or Science. Other languages should be offered - In British top schools, those students who have aptitude often learn three or four languages. It is with interest that I await the results and evaluation of the Japanese students who attend the Kaiyo Academy and how the academy has dealt with their students' different skill sets and ability.  If you now have something on this subject, I would be most interested in it. Please stay in touch.
 反応8.北九州市立大学文学部人間関係学科2年生クラス(40名)に、自宅学習教材として配布しました。数名のコメントの要旨だけを紹介します。
 8−@ 私が特に印象深かったのは、英語の発音やイントネーション強化のためにラジオ英会話講座を聴くが、集中力を高めるために決して録音をしないこと、と言っていることである。次に、基礎英文法を学習すれば、中級レベルのエッセイ・小説・物語などをどんどん読んでみることである、と言っていることである。何故ならば、成人するまで英語は大の苦手であったが、ある経験を境に好きになったからである。その経験の中で正に、この記事の主張と一致するからである。・・・・われわれは精神が成長するとともに、動機なくしては行動しづらくなっている。“英語力を高めたい!”というよほどの願望があるか、“英語は楽しい!”と言う気持ちが無ければ、学習への邁進は難しい。今の日本の英語教育に何よりも足りないのは、英語が実は非常に実用的で楽しいものだ、と実感する体験なのだと思うのである。
 8−A 昔の生徒に有能で英語のよくできる女性を紹介しほしい、と依頼されたことから始まっている。この人はシアトルへ転勤することになり、自分を助けてくれる人が必要なのだと言う。それは女性の品格について考えていない者であり、(彼は)英語を確りと学ぶべきである。しかし、先生の書き出しが面白くすらすらと読めた。・・・・このなかで私が一番印象に残ったのは、「赤尾マメタン」という本(辞書)を覚えていったページを、つぎつぎに破っていった、というところでした。確かにそうすることによって、完全に覚えなくてはならないというプレシャーになるだろうけれど、そんな方法を考えたことも無かったので驚きました。とにかく、第一段落では「なんと情けない男の話なんだ」と驚いたのですが、全体的に見れば情けない男の話ではなく、英語力には最初に語彙が無ければ、何も基礎ができないと言われている点にすごく同感しました。
 8−B 筆者は自身の経験から、英語の力を身につけるために、楽しみながら長文を読み、初段階として単語力6000語をつけること。・・・・長文を読めない日本人の理由として、真中の段階を飛ばすことをあげ、しっかりと真中の段階を踏むことを提言している。そして、具体的にアメリカ文学や有名な作者の物語も推奨し、楽しみながら英語を学ぶことを強調している。特に、筆者の4番目の提言が印象的であった。・・・・私も筆者の体験や考え方を元に、自分なりの“楽しい”“効率的な”英語の勉強をしていきたい。
 The 4 essential qualities of an English teacher: この記事は「私の英語学習法」に対する、読者からの予想外の好意的な反応に鑑みて、「私の英語教育」の理念と実践を投稿しました。勿論、本論の冒頭で述べましたように、これは筆者の狭い個人的な体験に基づいたものであり、目まぐるしく変化する、新たな文明の利器を活用すれば、更に効果的な英語教育法は可能でしょう。紙幅の都合で、英文記事は省略致します。英文記事(7本)の原文が必要な方には、連絡くだされば郵送いたします。

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