北九州市立大学同窓会

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関東支部

第7回「歴史歩こう会」 − 巡り会い −
  正岡子規と上野周辺散策

 10月9日(日)、未明から雨が降り出し、開催が危ぶま れたが、雨は正午には上がった。
 午後1時、集合場所のJR「西日暮里」駅に、5人の同 窓生が集まった。今回の参加者は、はるばる山梨県北杜 市から駆け付けた清水恭輔氏(S35・商)の他、大工原忠 雄(S35・米英)、浜道義章(S42・米英)、白石泰彦(S44・経 営)の各氏と案内役の森光盡一郎氏(S49・中国)、児森 進作氏(S42・商)は所用のため到着が遅れ、根岸からの 合流となった。
 先ず訪れたのは、日暮里駅東口の太田道灌の銅像。道 灌の銅像は都内、埼玉や神奈川の各所に見られ、ここ日 暮里駅前の像は騎馬姿で「回天一枝」の碑文がある。
 太田道灌(1432〜1486)は、室町時代後期の武将で扇 谷上杉家の家宰。鷹狩りに出て雨に遭い、農家の少女に 蓑を借りようとしたが、少女は蓑の代わりに山吹の花 の一枝を差し出すという「山吹伝説」の逸話が有名。道 灌は1486年(文明18年)8月、主君の扇谷上杉定正に謀 反を企てていると疑われ、糟谷館に呼ばれて暗殺され た。道灌は息絶える前に「当方(上杉氏)滅亡」と叫んだ と伝わっている。
 芋坂の文政創業「羽二重団子」に立ち寄り、落語家の 故林家三平記念館「ねぎし三平堂」のある根岸へ入り、 訪れたのは「子規庵」。俳人・歌人の正岡子規(1867〜 1902)、本名・常つね規のり、幼名・升のぼるが、明治27年から明治35年9 月35歳で病没するまで住んだ家で、昭和20年の戦災で 焼失したが、昭和26年再建され、昭和27年東京都文化史 跡に指定された。
 子規は結核とカリエスを患い、子規庵を病室兼書斎 と句会歌会の場として多くの友人・門弟に支えられな がら俳句や短歌の革新に邁進した。彼は糸へちま瓜を題材に した句が多く、彼の忌日は「糸瓜忌」と言い、毎年多くの ファンが集まる。「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
 言こと問とい通りの跨線橋を渡り、暫く歩くと天台宗浄じょう名みょう院いん がある。
 この寺は上野寛永寺36坊の一つで、境内に八万四千 体の地蔵が並ぶ景観は圧巻である。
 少し歩くと、天台宗寛永寺根本中堂がある。ここは天 海僧正により開山された徳川家の菩提寺で、天璋院や 6人の将軍の墓がある。
 上野恩賜公園の中に上野東照宮がある。日光東照宮 と同様に金箔が施されており、徳川家康、吉宗、慶喜が 祀られている。
 本日最後に訪ねたのは、正岡子規記念球場。この球場 は、2006年の上野恩賜公園130周年記念事業の一環で 「正岡子規記念球場」という名称で呼ばれるようになっ た。実際に正岡子規はこの上野恩賜公園内の空き地で 野球を楽しんでいたそうだ。
 アメリカからやってきた「ベースボール」は、正岡子 規により彼の名前 升のぼるに因み、野球(のぼーる)と名付 けられた。
 雨上がりの曇り空の下で厚くも寒くもなく、心地よ い秋の一日であった。

森光盡一郎(S49・中国)

北友会会報第115号(平成28年12月15日発行)掲載