北九州市立大学同窓会

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平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演)
基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」

「わが記者人生に悔いはなし」  
      西日本新聞社 元社会部長  田村 允雄(S42・商学部商学科卒)
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1  皆さん、こんにちは。田村允雄(たむら・のぶお)と申します。
 私は1967(昭和42)年に当時の北九州市立北九州大学の商学部商学科を卒業して西日本新聞社に入社し、社会部を中心に約33年間、取材・報道現場に身を置きました。本日はこの体験を軸にして「わが記者人生に悔いはなし」と、何だか偉そうな演題を掲げ、気恥ずかしいのですが、「演題に偽りなし」と納得してもらえるような内容のお話をしたいと思います。
<<はじめに>>
 本題に入る前に、前置きの話をさせてもらいます。まず今回の講座の基本テーマである「北九州市立大学をバネに活躍する人々」と私がどうつながるか、に触れましょう。40数年前、私が卒業した当時の北九州大は、正直なところ知名度が「中以下」でした。志望していた新聞記者として運良く採用されましたが、同期入社の多くが難関の国立大学や関東、関西の有名私立大学の卒業者で、「大学ブランド」では私は目に見えない引け目を感じたものです。当時は民間企業、役所を問わず、社会全体の職場に卒業大学の知名度がモノを言うというか、学歴が幅を利かすような雰囲気が、まだ根強かったと記憶しています。しかし、卒業大学や学歴でモノをいう世の中は間違いというのが、私の信念でありました。人間は仕事の実績で評価されるべきです。とりわけ新聞記者は取材力や執筆力など個々の記者の力量、実績がモノを言う、ある意味で「個人競争」の世界です。だから、納得のいくまで取材をし、読者に分かりやすい、役に立つ記事をいかに多く発信するかで、日々、奮闘することになります。
 そういう環境で他の記者と勝負をするわけです。心の中で唱える「北九大卒をなめるなよ」が、私の内なる闘争心や頑張りを生み、それが私の記者人生の糧になったのです。その意味で私にとって「北九大がバネ」になったと思います。
 次に、なぜ新聞記者を志したのかをお話します。父親が警察官をしていた影響もあったのでしょうが、高校時代にNHKテレビドラマの「事件記者」にあこがれました。事件報道で、捜査当局の捜査の厚い壁の隙間から核心の情報を入手したり、あるいは独自に自分の足で周辺取材を積み上げて容疑者逮捕など事件解決にこぎつける。そのようにして犯罪やいろんな悪事を白日の下にさらし、事件取材と報道を通じて社会正義を追求していく。「これぞ男の仕事だ」という働きがいを実感したいとの思いを募らせたものです。
 あこがれの記者になって出先の取材拠点と本社の間の転勤を13回経験しましたが、帰ってくる本社職場は常に社会部でした。ヒラ記者、キャップ記者、デスク、部長を務め、いわば社会部は私の取材・報道人生の「航空母艦」でした。それだけに2年前、西日本新聞社の組織改革で独立部署の社会部が消え、複数の取材部署が統合した報道センターになったのは何とも寂しいかぎりです。しかし、社会部で育った後輩たちは「社会部魂は永遠なり」と奮闘しているのは心強く、うれしいことです。

<<調査報道が果たす重要な使命>>(序論
 詳しい話に先立ち、少しばかりの「序論」を述べさせていただきます。本日、私がお話したい核心は、社会部を中心とした新聞報道に携わってきた実体験から「調査報道」の果たす使命がいかに大切であるか、ということです。この報道姿勢を貫くことが、読者である国民(納税者)、市民、消費者大衆の「知る権利」に応え、新聞などのジャーナリズムへの信頼を高める上で不可欠であると確信しているからです。
 日々あふれるほどのニュースが、新聞をはじめさまざまなメディアから発信されています。そのほとんどが、露出した、表面化した事柄について当事者サイドからの「発表」をもとにニュースとして発信されていることから、「発表報道」あるいは「発表ジャーナリズム」と呼ばれます。だから、見出しや切り口が違っていても、内容や展開などは各メディアとも「横一線」といってもいいでしょう。
 これらの対極にあるのが「調査報道」です。不正や巧妙な犯罪などは、いろんな手段で隠ぺいされ、「悪いヤツほどよく眠る」ではありませんが、なかなか表面化しません。関係者は自己保身のため、証拠を隠したり、口裏合わせなどをします。調査報道は、足を使った丹念な取材の積み重ねで、こうした「カベ」を剥ぎ取り、証拠や証言などをもとに「真実」を究明し、広く社会に告発していく報道活動です。
 過去、国内や国際社会で大きな反響を呼んだ数多くの調査報道がありますが、たとえば「現職首相の犯罪(収賄罪)」となったロッキード事件は、月刊誌の「首相の金脈と人脈」という調査報道が引き金となりました。またアメリカの「ウォーターゲート事件(民主党本部の盗聴事件)」は、ワシントンポスト紙の2人の記者が政府内部の情報源をもとに、執拗に裏付け取材を重ね、ついに大統領が直接関与した事実を突き止め、当のニクソン大統領(共和党)を辞任に追い込みました。
 このような調査報道が、健全なジャーナリズムを支える上で非常に大きな役割を担っているわけです。このことを深く掘り下げていくと、ジャーナリズム論とか、新聞学とか、大学の情報学科系の硬い専門講座になってしまい、聴講されている皆さんの多くがきっと睡魔に襲われてしまうでしょう(笑)。したがって、私自身が係わり合った具体的な報道の「裏側」を語り、調査報道が担う使命をお話ししたほうが、演題に添うことになると考えるしだいです。そこで、「忘れ得ぬ報道」という観点から、地元の福岡県はもちろん全国的にも大きな反響を呼び、新聞の役割や信頼を高めた、2つの大型の「調査報道」を具体的にお話ししたいと思います。

<<63億円に上る福岡県の公金不正>>
 「県国保課、ヤミ給与:年1000万円/カラ出張でねん出、分配/1人月7〜8万円」――1996(平成8)年10月28日付の西日本新聞朝刊・1面トップで報じた「特ダネ」報道の見出しです。この日以来、次々とイモづる式に明るみに出た福岡県の公金不正は、翌年春まで続いた第三者調査委員会の調査で最終的な不正額は総額約63億円にも上りました。
 納税者である県民にとって衝撃的な公金の不正を掘り起こした、半年以上にわたる「公金不正究明・ロングラン報道」は、典型的な調査報道によるものです。当時、私は社会部長でしたが、この年の春、部員の記者から耳を疑うような報告を受けたのです。県庁には「カラ・ウラ・ヤミ」の公金不正があるというのです。「カラ」はカラ出張、「ウラ」はウラ帳簿・ウラ金、「ヤミ」はヤミ給与です。カラ出張で捻出した公金のウラ金を、出張手当などヤミ給与として分配したり、内輪の飲食費などに充てているというのです。
 ただこの時点では、これはあくまでも「情報」「うわさ」であり、確証はなかったのです。当時、全国的にいくつかの自治体の公金不正が明るみに出ており、結果的には福岡県も例外ではなかったのですが、執念の掘り起こし取材が実を結ばなかったら、福岡県の公金不正は、それこそ「臭いものにフタ」、あるいは「ヤミに葬られて封印」になっていたでしょう。
 さて、この情報の端緒は、日ごろから正義感の強い社会部記者の「耳」から始まったのです。それからは「足」だけが頼りです。県庁の職員名簿を入手してOB職員や一部の現役職員らの自宅に足を運んで、くだんの情報の真偽を質そうとするのですが、多くが門前払いもいいところでしたね。しかし、「至誠天に通ず」といいますか、やはり記者の熱意にほだされたOB職員や一部の現役職員が、やっと重い口を開いてくれたのです。ある人は保存していた自分の手帳を出して出張した期日の記録を見せ、コピーさせてくれました。これが「ヤミの世界」の扉を開くカギになったのです。
 一方、情報公開制度に基づき、県庁に対して出張命令簿の開示請求をしました。特定の部署だけでは変に勘ぐられるので、いろんな部・課の出張命令簿の開示を請求しました。ところが、開示された出張命令簿のコピーは、出張した職員名が黒のマジックインクで塗りつぶされていました。しかし、職員の名前が黒塗りになっていても、出張した日時が個別の職員ごとに分かります。ある課では、毎月、職員のほぼ全員が出張した記録になっている。でも、入手した職員の手帳のコピーに記された本当の出張記録と照合していくと、出張していないのに命令簿には出張した記録になっている。そして、なんと月によっては10万円近い出張手当、旅費が支給されているではありませんか。そうです、この時点で出張命令簿の「ねつ造」が判 明したのです。
 あるOB職員は「ウラ帳簿」(ノート)を自宅の倉庫に保管していました。なぜ保管していたかというと、万が一この不正が表沙汰になった場合、自分はネコババしたのではない、自分のポケットに入れたのではない、つまり個人の不正ではなく組織的に裏帳簿の管理をさせられていたのだということの証拠として、退職後もウラ帳簿を自宅で保管していたというのです。
 いよいよ大詰め取材の段階に入りました。「特命取材班」の記者たちは自分たちが集め、整理した「公金不正資料」を協力者のOB職員に示し、確認を求めました。彼は腕組みして目をつむり、長時間、沈黙していましたが、やがて苦悶の表情を浮かべ、重い口を開きました。取材資料をめくりながら、彼は「間違いありません。資料に示されているようなことをしていました」と告白、証言しました。ついに、公金不正の「動かぬ証拠と証言」に到達したのです。情報入手から足を棒にして地を這うような社会部記者の掘り起こし取材は、季節が春から晩秋になるまでの半年を費やしていました。
 公金不正の多岐にわたる裏付け資料を用意し、満を持した西日本新聞の「福岡県の公金不正」の特ダネ・調査報道の開始は、県庁全体に激震をもたらしたのはいうまでもありません。朝刊、夕刊と切れ目なく、県庁各部署の「公金不正」の実態を紙面化していく中で、県当局は第三者の調査委員会を設置し、不正の実態と背景などの究明に乗り出しました。
 「ウラ金づくり」の不正の表面化は、県庁の行政部局にとどまらず、県監査委員会事務局から福岡市の行政部局、福岡市交通局のほか、北九州市の行政部局まで「飛び火」しました。その多くが行政組織の内部通報によるもので、裏付け取材にてんてこ舞いしましたが、社会部を中心に本社取材部署、北九州支社(現・北九州本社)、東京支社で編成した「公金不正取材班」は、休日返上の過酷な取材・報道にむしろ充実感さえ覚えたものです。
3  こうした公金不正の実態究明の調査報道と並行し、その背景や素地を踏まえて自治体の機能を再生させるための「キャンペーン報道」も展開し、これには多くの読者の怒りや提言なども幅広く発信していき、自治体からも共感を呼びました。

 最終的には、第三者調査委員会は翌年の年末までに、約63億円に上る公金の不正支出額を確定しました。その過程で県は関係部署の職員2900人に対する処分を行い、公金の不正受給が確認されたOBを含め現職の部長、課長、係長に不正受給の全額返還を命令しました。これは当たり前ではありますが、とくにOBの人たちからは西日本新聞は恨まれました。「西日本新聞の購読をやめる」「新聞代は払わん」などの電話が本社や販売店にあったのですが、取材・報道の現場としては、ひたすら耐え忍ぶ日々が続きました。
 翌年の初夏に一連の「公金不正報道」に一区切りを付けたのと符節を合わせ、取材班は1997年度の日本新聞協会賞(報道部門=地域キャンペーン)を受賞しました。「単なる公金の不正暴きに終わらないで、波状的なスクープを企画連載と連動させ、不正支出金の返還、公金支出の監査強化、諸制度の改革、情報公開制度の改善につなげた」の受賞理由は、取材班代表(社会部長)の私はもとより、取材班の記者全員は社会的使命を果たした達成感に浸りました。
 この一連の報道で忘れ得ない感動は、数え切れない読者からの激励や行政への批判が殺到したことです。報道開始から1カ月だけで1000件を超えるハガキ、手紙、FAXが社会部に届きました。その中のハガキの1枚を今でも自宅で大切に保存しています。新聞や新聞記者は読者に支えられていることを如実に物語っています。
激励ハガキの原文
 ここで頑張って下さい!われらの「西日本新聞」。福岡県庁の「公金不正支出問題」は、私たち市民はこれは単なる「不正支出問題」ではなく、明らかに「犯罪」と断じます。「公費の詐取横領事件」です。御紙の勇敢な且つ社会主義に燃える日頃の努力のお陰で、今回このような驚くべき事実が市民の前に明らかにされました。本当に有難うございます。それにしても腹わたの煮えくりかえる事このうえなしです。「旅費規程が時代遅れだから」とか「この際早急に旅費規程改定を」とか、何をぬかすかと言いたい。公費詐取横領という犯罪意識など全然ない証拠です。納税者市民のこと等、全く眼中になし!既に御社には県職員全てが講読を止めるぞ、と脅迫があるやも知れませんが、是非、徹底的な頑張りと、さらに掘り下げた報道を頼みます。バックに福岡・九州・全国数千万の市民、県民がいます。

<<小倉北区の病院長殺害(遺体切断・海中遺棄)事件>>
 この事件は私が社会部の事件担当キャップ(班長)時代の1979(昭和54)年11月に起きました。被害者が「夜の小倉の帝王」の異名を取る小倉北区の資産家の病院長で当時61歳。その病院長の首と両足が切断され、両手が付いただけの胴体が大分県・国東半島の海岸に流れ着いて発覚した猟奇的な事件の幕開けです。そして家族の話で、失踪後の病院長からの電話指示で家族が高級ホテルのフロントに預けた現金2000万円の受け取りに失敗した「謎の男」の存在など、事件の外形からだけでも犯人像の割り出しを巡って地元の北九州100万都市はもちろん、全国的にも社会の関心が「沸騰」したのは無理もありません。だから、新聞やテレビ、週刊誌も「10年に1度の難事件」と過熱報道が続きました。
 ところで、基本的に捜査当局は、事件の解明途上では集めた重要な捜査情報を報道機関には公式発表をしません。特異かつ重要な事件になればなるほど、捜査当局の「保秘」のガードは堅くなります。したがって、事件報道は記者たちが独自で調査、取材した情報・資料と、捜査陣の水面下から得た情報とを突き合わせながら犯人像などに迫る報道になります。その意味で、事件報道も内実は「調査報道」と言えます。
 この事件は遺体の発見から別件逮捕の容疑者の「自白」で全面解決するまで4カ月かかった難事件でしたが、警察の聞き込み捜査と同じように、記者たちは連日、足を棒にして「点」と「線」をつなぐ「聞き込み」取材に明け暮れしたものです。あまりにも多い「謎解き」と格闘の日々、そして急転直下の「自白」によって発見された物証、周到に計画された「完全犯罪」のシナリオなど、この事件の特徴を「調査報道」の視点からお話ししましょう。
■「謎の失踪」の病院長が「首なし胴体」 ■
 「人に会いに行く」と外出した病院長が、夜になって家族に「高い買い物をした」と家族に電話し、小倉北区の高級ホテルのフロントに現金2000万円を預けるよう指示したのが最後の電話でした。翌日午前、家族がフロントに現金を届けたものの、受け取りに現れた若い男が「預かり証」を持たなかったため、諦めて姿を消したことが判明し、また病院長からも電話がなく、帰宅しないので心配した家族が「家出人捜索願い」を小倉北警察署に出しました。病院の雰囲気や夜のネオン街での院長の派手な言動など、いろんな面でその名がよく知られている病院長なので、新聞は行方不明を報じる小さな記事を載せました。
 一方、病院長のこの「謎の失踪」から1週間後、大分県の国東半島の海岸に毛布に包まれた、両手だけが付いた男性の「首なし胴体」が漂着したのです。今では「バラバラ殺人」とは言いませんが、当時はマスコミはそのような表現をした記事であふれました。さて、その翌日です。大分県警から福岡県警に送られた両手指紋の照合からこの遺体は、失踪した病院長と確認され、これを新聞やテレビが大々的に報じ、この衝撃的な事件の報道が幕開けしたのです。余談ですが、当時、社会部で事件担当の記者7人を束ねるキャップをしていた私は、この日から現地の北九州支社(現・北九州本社)に泊まり込む生活が4カ月余り続くことになったのです。
■つながらない「点」と「線」■
 病院長が会おうとしていた人物は「誰」で、場所は「どこ」か。生前の病院長が電話で家族に話した「高い買い物」とは何を指すのか。病院長の指示でホテルのフロントに預けられた2000万円の現金を受け取りに来た若い男は「何者」か。殺害現場は「どこ」で、凶器などの「物証」はどこに隠されているのか。
 こうした「点の謎」を解き明かす手掛かりは、病院長をめぐる人脈に潜んでいることは推察されたものの、病院長の公私とも並はずれて広い人脈の解明は、捜査陣も記者たちも同じようにと労を重ねる日々が続きました。一方で、新聞社には読者から「怪しい人物がいる」という情報提供の電話が寄せられるなど、まるで100万市民の多くが犯人探しの「探偵」になったような気分さえ覚えたものです。
 また、殺害の物証につながる可能性があるのは、遺体が包まれていた毛布と、これを縛っていたナイロン製のロープですが、これも失踪からの「点の謎」と結びついて「線」になるまでには、測り知れない「距離感」がありました。
■浮上した「重要参考人」の「別件逮捕」で勝負に出た捜査陣■
 捜査陣にもマスコミにも「長期戦」の雰囲気が色濃く漂うようになり、季節はやがて晩秋から年の瀬に差し掛かっていました。そんな折、遺体をくるんでいた毛布にクリーニング店の顧客札が縫い付けられ、これに2文字の姓(S)が記されていた事実を、捜査筋から記者が入手してきたのです。Sはかつてこの店のお客さんでした。一方、病院長の人脈取材の中でナイトクラブのフロアマネージャーをしていたYという男が、店の常連客だった病院長とかなり懇意にしており、事件当時はスナックを経営していたYの周辺取材で、Sとは「サウナ友達」であることが分かったのです。病院長とY、そしてSを結ぶ「線」が浮かび上がったのです。もちろん捜査陣もこの事実をつかんでいました。
 事件当時、スナックのマスターのYは、店の大型水槽に熱帯魚のピラニアを入れ、投げ込んだ金魚を食べさせる「残酷ショー」を売り物にしていました。 この店に病院長がおびき出され、監禁・大金要求・殺害現場になったことは、周辺取材の段階では夢にも思っていませんでした。一方、釣具店を営んでいたSの周辺捜査で、捜査陣は店には釣り用のナイロン製ロープがあり、これが病院長の遺体を包んでいた毛布を縛っていたナイロン製ロープと酷似していること、さらにSの所有とみられるこの毛布に付着していた毛髪類は、極秘に入手したSの毛髪類とほぼ一致している鑑定結果を得ていました。加えて派手な遊興をしていたSとYはカネに困っていたという有力情報もつかんでいました。さらに、Sの所有していたボックス型のワゴン車と同じナンバーの車が、病院長の失踪した翌日の夜、小倉・日明港から四国・松山行きのフェリーに乗っていたのが乗船記録簿で判明していました。
 こうした事実からSとYは「重要参考人」として急浮上したのですが、私個人として衝撃的だったのは、Yの店にしばしば飲みに行き、顔見知りだったことです。まさに「事実は小説よりも奇なり」です。後日、全面自供したYが警察署から検察庁に送られる時、私の顔を見たYが眼に涙をいっぱい浮かべ、顔をくしゃくしゃにして私に頭を下げていたのを今でも忘れません。
 いずれにせよ、SとYが病院長の死体遺棄に関与したことをうかがわせる多くの「状況証拠」はあっても、遺体の遺棄はもちろん、殺害を直接結びつける決定的な「物証」はなく、捜査は完全に行き詰っていました。捜査機関は、本筋が解明困難な難事件では、別件の犯罪容疑を探し出し、これで身柄を逮捕して本筋の事件の犯行を「自白」(自供)させる、いわゆる「別件逮捕」の捜査手法を取ることはよく知られています。

4  事件発覚から4カ月、捜査陣はついにS(当時33歳)と、Y(当時27歳)について、金融機関が被害者の「恐喝未遂容疑」で逮捕に踏み切り、「別件逮捕」による事件解明の「大勝負」に打って出たのです。

■Yの「全面自供」で「完全犯罪」を狙った全容が判明■
 捜査当局の内部用語で「落とす」「落ちる」という言葉があります。これは容疑者を「自供させる」「自供する」という意味ですが、別件逮捕されたYが、情理を尽くして説得した捜査員の取り調べに全面的に「落ちた」、つまり自供した結果、物証の凶器の発見はもとより、「謎」のすべてが解明され、全面的に解決するという、いわば劇的な展開を見せました。
 Yの取り調べを担当したベテラン捜査員は、福岡県警の中で「落としの○○さん」の異名で通る「取り調べ専門官」でした。彼は、Yが重要参考人として浮上した以降、Yの性格、生い立ち、家族や家庭環境、学校時代の友人などを自分の足で聞いて回りました。Yを容疑者として取り調べる日の到来に備え、Yに対して人間としての良心を目覚めさせるために多くの証言を集めていたのです。別件逮捕から10日を過ぎた夜の取調室で、彼はYに小学生の1人息子から聞いた話を切り出しました。『君は、日頃から息子にウソをついたらウソがウソを生んで、誰からも信用されなくなる。ウソつき人間になったらダメだぞ』と言っていたようだね。父親の君とのキャッチボールが楽しみだった息子は、1人さみしそうに石垣を相手にボール遊びをしていたよ」と語りかけました。これを聞いていたYは突然、机に突っ伏して泣き崩れたのです。やがて「すべてお話します」と口を開き、Sと一緒に周到に犯行を計画し、実行した内容を「全面自供」したのです。
 ――犯行動機は、病院長から大金を脅し取るためで、有名な女性歌手とデートさせると騙し、日曜で休業のYのスナックにおびき出して監禁、家族に「高い買い物をした」と電話を掛けさせたこと。ホテルフロントでの2000万円の受け取り失敗は想定外の誤算だったこと。Yはパンチパーマの頭にかつらをかぶり、鼻ひげを剃ってホテルフロントに出向いたこと。殺害、遺体の切断、海中への投棄などは最初から計画していたこと。遺体の切断はSと2人でモーテルで行い、凶器のナタやノコギリは農業用水のため池に捨てたこと。両手の切断は気分が悪くなり、断念したこと。遺体には重りをつけていたので永久に見つからず、完全犯罪を信じていたこと――等々。
 裁判では、犯行をどちらが主導したかが焦点の1つとなり、SとYは法廷で「命乞い」とも受け取れる、「罪のなすり合い」の弁明を重ねていましたが、一審の福岡地裁小倉支部、二審の福岡高裁とも2人の共謀、共同正犯を認定して「死刑」判決を言い渡しました。さらに、上告した最高裁でも上告が棄却され、死刑が確定したのですが、殺害された被害者が1人に対して、犯人の2人のいずれも死刑判決というのは異例の裁判だった点でも、世間の耳目を集め続けた裁判でした。 事件発生から17年、死刑判決の確定から10年を経た1996(平成8)年7月11日、SとYは拘置されていた福岡拘置所で死刑を執行されました。Sは49歳、Yは43歳の生涯でした。 

<<「足」が究明する「真実」――「調査報道」の真髄>>(結び
 福岡県の公金不正は、行政組織内部で「税金に対する公金感覚のマヒ」に加え、「皆で渡れば怖くない」の意識が各職場に蔓延していたのが、不正を許した温床になっていました。西日本新聞の徹底した「調査報道」が実を結ばなかったら、この不正は「ヤミ」から「ヤミ」へと、今なお続いていた可能性が極めて強いでしょう。また、猟奇的な殺害方法と大金の詐取未遂が絡んでいた資産家病院長の殺害事件は、別件逮捕の容疑者が「証拠の女王」とされる「自白(自供)」をしなければ、この難事件は「迷宮入り」さえ想定されました。しかし、新聞などマスメディアの過熱気味の「調査報道」は、ある意味では捜査当局の事件解決への「揺るぎない決意」を促したことにつながったといえます。
 取材・報道にしても、捜査にしてもその基本は、それぞれの活動に携わる人間の「足」であり、使命感の堅持と情熱です。これが「真実の究明」に不可欠であり、「調査報道」でいえば、その「真髄」であるというのが、約33年間の記者体験で得た私の信念であります。もちろん、この長い記者人生の中では、多くの失敗談もありますが、それらは「記者失格」までに至らなかったのは幸運というか、人徳があったのでは(笑)とも思っています。このようなことを総合的に「自己総括」したうえで、「わが記者人生に悔いはなし」という演題を掲げさせていただいた次第です。
 最後に蛇足のお願いです。インターネットなど多メディア・電子情報時代が深化し、新聞の読者が伸び悩んでおりますが、皆様におかれましては、私の話に共感や共鳴を覚えられたならば、ぜひ新聞の愛読者としての暮らしを続けていただくようお願いします。ご静聴ありがとうございました。
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プロフィル】
 
1944年3月、山口県生まれ。67年3月、北九州市立北九州大学(現・北九州市立大学)商学部商学科卒。同年4月、西日本新聞社に記者として入社。約33年間の記者人生の約半分は社会部勤務(4回/通算約16年間)。社会部長時代の96〜97年、総額約63億円に上る福岡県の公金不正支出(カラ出張など)の特ダネ報道、これに連動した自治体再生の紙面キャンペーンが、97年度の日本新聞協会賞(報道部門=地域キャンペーン)を取材班代表として受賞した。記者時代は、社会部のほか、北九州支社(現・北九州本社)、東京支社、北京特派員(現・中国総局長)、筑豊総局長、編集局次長などを歴任。2000年6月以降、編集局を離れ、制作技術局長(現・システム技術局長)、取締役製作担当・製作センター長、叶シ日本新聞印刷常務取締役労務・制作担当を務め、09年6月に現役を完全引退した。10年5月、北九州市立大学同窓会会長に就任。