北九州市立大学同窓会
平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演)
基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」
「門司港レトロを立ち上げた男」
北九州市 元消防局長 木戸 一雄(S37・商学部商学科卒)
※画像はクリックで大きくなります。 皆さんこんにちは。ご紹介いただきました木戸一雄でございます。 |
平成7年に門司港レトロ事業がオープンして半年後に「門司港レトロ事業推進室」が閉鎖になりました。門司港レトロ事業の記念にその当時の「室」の看板と「室長」のネームプレートを持って帰っておりましたので本日皆さん方にご披露しようと思い持ってまいりました。
それでは早速講演に入りたいと思います。
私は門司生まれの門司育ち、今年71才になりますが、門司から一度も離れたことがございません。小学校、中学校、高等学校と野球一筋に歩いてきました。
当時中学校で熱心に生徒指導されていた先生がおられました。ちょっと元気のいい男の子達が悪い横道にそれてはいけないので、スポーツで汗を流させようと、元気のいい生徒を野球部に引っ張って鍛えておりました。
私もその1人かもわかりませんが、小・中・高校を通じて野球をやってきました。高校3年の夏、甲子園大会に向けて練習をしていたときに、北九大野球部のキャプテンで高校の先輩が指導に来てくれました。
その時先輩から、九州六大学リーグが発足して間もないがあまり強くないので、北九大に来て野球をやらないかと誘われました。
私は門司から一度も離れたことがないので、東京にあこがれていましたが、家庭の事情もあって東京まで行くことができません。家から通って好きな野球が出来るのなら北九大を受けようと思い担任の先生に相談しましたら「北九大だったらなあ」ということでした。
北九大に入学し、野球部員が少なかったこともあって、1年生からレギュラーのキャッチャーとして出場することができました。春の九州六大学リーグは2位でした。そして秋には初優勝となったわけです。以上レジメに書いていますように、優勝は、出来ませんでしたが、2位が5回、3位が1回と言うのが当時の成績でありました。北九大の野球部の第一期黄金時代の時期であったのではないかと思うわけでございます。
昭和35年、私が3年生のときに九州大会の予選がありまして、それに勝ち抜いて神宮球場に行くことになりました。
当時、名のとおった私立大学ばかりが集まってくる中で、公立の大学は北九州大学だけと、全国に紹介されたところでございます。 1回戦で神奈川大学に2対7で負けましたが初出場ということで、同窓会をはじめ沢山の方々が神宮球場まで祇園太鼓などを持って応援に来てくれました。
昭和37年私が卒業した年とその3年後の昭和40年に九州六大学リーグで優勝して神宮球場に行くことができました。
しかし、その後は野球部の低迷時代がつづきました。というのは入試が非常に難しくなって、野球をする人がなかなか北九大に合格できない。ある時は試合に行く選手の人を授業の合間に集めていくという、大変な時期がありまして、北九大の野球部はもう廃部か、九州六大学リーグから撤退をしないといけないのでは、と言われていました。その後、2部の学生が入ってきて、野球部の部員もだんだん増え、強くなっていくわけです。
そして平成16年。今から6年前ですが、39年ぶりに九州六大学リーグで優勝し、神宮へ行くことができました。その時のピッチャーが今中日ドラゴンズで活躍している中田賢一くんです。連投に連投を重ねて優勝し、神宮に進んでいったのです。一回戦は創価大学に勝ちました。そして翌年も勝って神宮に進出しました。
現在も九州六大学リーグでは優勝に絡みながら、おしくも2位とか3位の成績で後輩達が頑張っています。皆様、引き続き野球部に対するご支援をお願い致します。
大学時代の4年間を振り返っても、野球中心の人生でした。当時、野球部は皆丸坊主で、学生帽をかぶって通っていましたので、横道にそれることもなく、なんとか4年間で卒業することができました。
大学時代の思い出の一つとして、当時、北九州大学2代目の学長に古野清人学長という方がおられました。学長は全く野球に縁の無い方でした。ところが九州六大学リーグで主催者ゲームのときには各大学の学長に始球式をしてもらおうということになり、古野学長にお願いしたところ快く引き受けてくださいました。しかし今まで野球をしたことがない、ボールも握ったことがない方ですので、早速キャッチボールから始めました。私達がその相手をした訳ですが、そういうことが縁となってその後野球に非常に関心をもたれるようになりました。練習の時にも時々グラウンドに顔を出され、小倉球場、今の北九州市民球場での試合にも、よく応援に来てくださいました。
その古野学長から、練習の時に“おい木戸くん、いい役者は幕が下りてからが違うのだぞ。”ということをいわれました。何事でも一流になるには人一倍の努力をすることが必要なのだとの教えでした。
その教えは、その後の私の人生の教訓としてきました。
大学の四年間は毎日野球の、厳しい練習に汗を流して来ました。私にとって、心、技、体の態錬でもありました。技のほうは一流にはなれませんでしたが、精神力、忍耐力が培われ、その後の人生にとって大きな財産になったと思われます。
卒業し門司市役所に入ることになりました。翌昭和38年の2月に北九州の5つの市が合併して北九州市になったわけです。私の住んでいた門司でも市職員の募集がありまして、応募条件として門司在住のものに限る。ということでございました。自宅から通え、弟等がおり親父も歳をとっておりましたし大学にも行かせてもらった恩返しに少しは家庭への協力をしなければと思い受けました。
当時の市役所の評価は民間企業に比べてそんなに高くはありませんでした。その時の試験の作文に、「どうして市役所を受けることになったか」との設問がでました。事前に用意していたわけではありませんが、「民間企業では、できない福祉関係の仕事をやってみたいので。」と書いた記憶があります。その結果かどうかわかりませんが、合格することになりました。
最初に配属されたのが福祉事務所のケースワーカーでございます。市役所で、福祉事務所・組合運動・同和問題に携わりましたがいずれも、最も大変な時期でございました。福祉事務所では当時、生活保護率が一番高い状況でありました。先日ある新聞に出ておりましたが、最近は不況の影響で、北九州市の生活保護世帯が増えてきていて22,000人を越え、保護率も2.24‰で全国平均の1.51‰よりも高いということが出ておりました。私がいた昭和42年には生活保護世帯が7万人をこえており、保護率は6.72‰で全国でもトップクラスの時期でございました。
職場では先輩と同じように担当地区をまかされました。80世帯位が適当であると言われていましたが、保護世帯が多かったので80世帯という事にはなりません。100から120世帯を受け持ちました。保護世帯にとっては若いケースワーカーでも一番頼りにしなければならないのです。
私も、保護世帯の生活と命を預かっているということでその責任の重さは痛感していたところであります。保護行政は甘くなりますと、市民からの批判がでますし財政面にも大きく影響してきます。一方厳しくなりすぎますと、4、5年前に社会問題になりました孤独死のようなことが起こります。人の生命に係わる保護行政は、適正保護がケースワーカーに強く求められているわけです。
各世帯にはいろんな問題がございますがそんな問題を解決して、一日も早く自立更正していくように支援していくのがケースワーカーの重要な役割であります。
まだ学校でたての22・3才の若者が、各世帯を指導していくのは非常に難しいことです。でも、そうはいっておれません。相談を受けたり自立更生に向けて計画を立てていく時に、自分なりにいろいろ考え、「相手の立場に立って考えてみる。」ということを基本にケースワークーをやってまいりました。それぞれの保護世帯には、過去からの教育、職業、病気、健康状態などのいろんな事情があるのです。
もし私がそういう経過をたどって、その立場になったときには自分ならどうするだろうかと考えたのです。若い私に対して保護者の方からは、少し頼りない感じがあったかもしれませんが、第一線で全力を尽くしてやってまいりました。
そうしているときに、年配の方はご存知かと思いますが、北九州市の清掃紛争が起こりました。現業職の人達がストライキを行って、清掃車を各区役所に集結し、ごみとし尿の収集をボイコットしたのです。
その背景には行政職と技能労務職の給料表が一本になっているのを分けなさい。という国の指導があり、それに従わなければ国からの補助金はカットするということでした。北九州市も、国に指導に従わざるをえないということで給料表を分ける。給料表を分けると現業労働者の賃金が下がるのではないかということで、その行為に至ったわけです。
当然、市民の市政に対する批判は大変なものでありました。私も組合に入っていましたが、市民に迷惑をかけるような運動は支持を受ないということで、新しい組合を作ることになりました。当時の市長が吉田法晴革新市長で、われわれの労働組合も吉田市長を推薦して来たのです。
その市長の足元を掬うような組合運動には反対ということで、新しい組合を作ったのです。 私は組合運動に関心があったわけではありませんでしたがいろいろなしがらみから執行部におされました。
1〜2年して、ほとぼりが冷めたら役員をやめようと思って引き受けました。ところが、清掃紛争などの影響があって次の市長選挙で敗れ新しく谷市政が誕生したのです。谷市長は、北九州市は、「公務員の人数が多く人件費が高すぎる、生活保護率が高いのでこれを正常化する。」などの公約を掲げて当選をされたので、就任後、矢継ぎ早やに、どんどん合理化を進めてきたのです。
地元の職員では、過去からのいろいろなしがらみがあるので、そのような合理化を実施することはできないだろうということで、国から腕利きの若手官僚を引っ張ってきました。助役には自治省から松浦功氏、教育長には文部省から、高石邦男氏という、豪腕の方が見えて、北九州市の合理化を推進する。両氏とも各省のエースで将来を嘱望されておりました。その後それぞれの省に帰って、事務次官まで上り詰めた方でした。この合理化に対して組合は激しく抵抗していく展開構図になりました。
全国の自治体労働者からも、こんな合理化を許していたら明日は我が身だと、いうことで関心が寄せられ、県内の自治体労働者はもちろん、全国からも支援が殺到する事態になりました。1.2年でやめるつもりが、雲行きが変わったことによって辞めることができなくなりました。こんなときにやめたら、状況が悪くなったので逃げたのではないかと言われそうで、役所にいる限りその風評は一生付きまとってくるのではないかと思い、もうしばらく組合運動を続けていくことにしました。
極めつけは、病院の給食調理員157名を一気に首を切るという合理化が出されました。組合としては絶対に許すことはできないことで、いろんな戦術を組んで抵抗しましたが、打開の道は開けない。「地方公務員法」では身分の安定を保障している代償としてストライキなどの労働基本権が規制されています。しかしその身分を剥脱するのならストライキを行使し、世論に訴えていこうとストライキの戦術を組みました。
ストライキは以前の清掃紛争のように市民に迷惑かけるようなことはできません。しかし、ストライキをやらなければならないということが社会への問題提起となって広がっていき、そこから労使問題の解決の糸口が見つかるのではないかと考え、始業時から30分から1時間の事務を停止し、すぐに再開することにしました。
組合の役員として先頭に立ってやったものですから、最初のストライキが終わったときには、停職6ヶ月の懲戒処分がきました。そして、その6ヶ月が経過しない間に第二波のストライキを実施し停職3ヶ月の処分を受けました。
マスコミの方で“処分は、労働組合幹部の勲章じゃないですか”といってなぐさめてくれた人もいました。
第三波のストライキを計画するときに、おそらくこれが最後のストライキになるだろう、組合員もそんなについてきてくれるわけでもない。私自身も第三波のストライキを実施すると、2回も処分を受けているので、三回目はおそらく首になるだろうといわれていましたし自分もそういうことは覚悟をしておりました。 |
第三波のストライキを実施しました。幸か不幸か停職3ヶ月ということで、首は免れました。そこで私は、もう一度、市の仕事に戻ることにして、役員をおりた訳です。
次の異動で、他の区役所に異動になりました。職員の中には私が飛ばされたのではないかという方もいましたが、私は環境をかえてやるので心して出なおして来い。という上司の配慮でもあると思い、腐らずに一生懸命仕事に専念しました。
まだ30才くらいでしたので、定年まで、まだ30年ある。このまま平々凡々と役所の中で30年過ごすのか、それもひとつの生き方であろうが、もっと市民生活に影響のある仕事をやってみたい。そのためには管理職にならないと、責任と権限がついてこないのです。とはいっても、今まで当局にたてついて3回も処分を受けたので市の管理職として受け入れてもらえるだろうかということも考えました。しかしその後、市の労使関係も安定してきていますし、市の幹部の顔ぶれもだいぶ変わってきていたので、もしかしたら受け入れてもらえるのではないかと思いました。
北九州市は係長昇任試験を通らないと、次の課長、部長、局長への道は無いわけで、日ごろの本人の勤務成績と試験の合計点がその係長昇任試験の合否を決めることになっているのです。 今まで組合役員のときは皆に「昇任試験なんかうけるな」と言って来た手前、受けるとなると皆びっくりするだろうし、家内にもそんなことは話しませんでした。受けるからには、何回も昇任試験を受けて落ちるとなると物笑いの種になるので勝負は一回しかできないと考え、2年間猛勉強しました。 これまでの人生の中で、この2年間が、一番勉強したのではないかと思います。もう少し早いときからそれだけの勉強をしていたら、また私の人生も変わっていたかもしれません。日頃の勤務評定は上司がするわけですから、そのことは別において、試験だけは人より少しでもいい点を取らなければ合格できないと思い猛勉強したのです。
今日家内が来ていますが、そのことは試験を通ってから、初めて知ったようでした。試験の発表があって、皆が驚いたのです。受けたとことと、しかも通ったということで、「エーあの木戸が」とびっくりしたのです。このことが契機となって、当時組合活動をしていた若い優秀な青年が続々と昇任試験に合格していきました。
先日市の人事課に尋ねたところ、現在、市の7等級の局長や区長級などですが、38人いるそうです。そして行政の職員が4400人いるわけですから、その7等級になる確率は0.9%です。その局長、区長クラスに当時組合活動をしていた人が私を除いて5名、なったのです。
昇任試験に合格し、最初の異動は同和地区内の「市民館次長」を命ずるという辞令でした。
同和問題は江戸時代の身分制度が今日まで完全に解決されずにきた、いわゆる人権にかかわる問題でもございます。 当時、国会でも同和問題が議論され、法律が制定されました。この、「同和問題の解決は国の責任であると共に、国民的な課題である。」と、いうことで昭和44年から10年間の時限立法として事業が開始されました。
二年間、市民館で業務に当たって、本庁の同和対策部のほうに異動になりました。市の同和問題の窓口として各局の事業の調整、関係団体との折衝にあたりました。 関係団体は3つありまして、その団体間の調整は非常に難しく、難航することばかりでした。 そうこうするうちに差別事件が勃発し、その対応と解決に東奔西走し、市役所が5時に終わってまともに家に帰ったことはありません。早くて午後9時頃、ほとんど11時、12時の毎日で、徹夜したことも数えきれないほどありました。若かったので身体がもったのでしょうが。同和問題担当の多くの職員は、1、2年で交代していきましたが、私は学生時代に鍛えてきた身体のおかげで市民館のときから10年間勤務することができたのです。
そのときに大きな差別事件が起こりました。一つは結婚差別の問題です。結婚差別の問題は、同和地区の女性と地区外の男性との結婚の場合に悲劇が起こることが多かったわけです。当人同士が恋愛をし、男性側が結婚を親に打ち明けると親、兄弟、親戚から、猛反対され男性のほうから別れていく。そのことによって女性の方が自殺するということが、全国のあちこちで起こっていました。 反対に同和地区の男性と地区外の女性との場合は、うまく行くのです。当時、女性は嫁に行くということで弱い立場でしたが、最近はだいぶんかわってきまして、結婚する前から女性のほうがリードしており、そんな男性ならこちらから別れるわ。と言う事になっているのではないでしょうか。昨今の、女性のパワーを感じるわけでございます。
もう一つは就職差別の事件です。業者が全国の同和地区を調べて、その地名を紹介する冊子を作り、各企業に、ダイレクトメールでこんな本を買いませんかと紹介し、しかも多くの企業でその冊子を購入していたことが明らかになりました。 そのことは何を意味すると思いますか。
いわゆる同和地区の人たちを優遇することで買ったわけではありません。同和地区など関係ないということならそういう冊子はいらないわけです。できたら同和地区の人達を会社に入れたくない、避けたいということが根底にあったことは明らかでございます。
市内の地場で、そういう「地名総鑑」を買った企業がありました。当然、追及の声が上がってくるわけです。行政も、運動団体も購入した担当者だけを責めるのでは無くて、これを契 機にその人事担当者が社内で同和問題の解決のために、先頭に立って研修に取り組んでいってほしい。そのことがこの問題の解決につながっていくのだと訴えてまいりました。 会社にしてみれば迷惑をかけたそんな幹部はもういらん。ということで、市や運動団体がこのことに関与していかなければ、おそらく首を切っていくような状態であったと思います。それでは問題の解決にならないと指導し、社内研修に取り組んでいただいた訳です。
それから市内のある大手の企業ですが、社員の結婚差別事件がありました。 社員が親の反対を押し切って同和地域の女性と結婚したわけです。結婚式のときは男性側の親族は一人も列席しない、そういう困難を乗り越えて結婚し、立派な家庭を築き子供さんもできたわけですが、その後男性のほうに女性問題が出てきまして、離婚問題に発展するわけです。そのとき女性に“お前は同和地区の出身ではないか”と言って別かれていったのです。当然その企業は社員にどんな研修をしているのかと、責任が問われました。
ある晩に突然、そこの所長が私の家に参りました。37.8才の市役所の一係長の家を訪ねて来たわけです。所長は“会社経営については自分なりにやってきたけれど、同和問題については本当言ってわからない。”“しかも、社員が差別事件を起こし企業のトップとして社会的責任を感じている。この問題の解決に向けてどうしたらいいか教えてほしい”と相談に来たのです。
さすが大企業の所長だなあと思いました。その方はその後本社の副社長になられた方ですが、その時に話をしたのは社内研修に取り組んでいくこと、その際、同和問題で差別事件を起こしたから研修をするのだという被害者意識ににたつのではなく、同和問題は人権問題でもあるので、この研修を通じて社内の人権問題を一緒に考えていくことが必要でないかと言いました。
当然私たちも企業に入って社員と一緒に研修をやっていったわけですが、そういうトップの姿勢と、熱心な企業の取り組みによって、一応当面の問題解決を見ることができました。 さすがに大企業のトップになる人の器は違うなあと、あらためて感じた次第であります。
いろんな体験をして、平成二年に「八幡東福祉事務所所長」の辞令を頂きました。ちょうど50才のときでした。最初に福祉事務所に入って、福祉をやりたいということを論文に書いており、福祉で始まり福祉で終わることは自分の人生にとっても意義ある事なので、このあと十年間、福祉行政で卒業したいなあと思っていました。
ところが、翌年の4月の異動で「企画局門司港レトロ事業推進室長」の辞令を受けました。一年での異動なので驚きました。 先輩から、“門司港レトロ事業は、いま苦境に立っているお前は買われて行くのだからいってがんばれ。”とのアドバイスをしてくれた方もおりました。
レトロ事業は皆さんご存知だとは思いますが、当時の竹下内閣の時に、「ふるさと創生」として各自治体に1億円ずつの補助金をあげるので、それを元手にして地域おこしをやりなさいということでした。自治体の中には金の延べ棒を、1億円で買ってそれを市民に見せて観光に役立てたところもありました。北九州市は女性行政の関係が、非常に盛り上がっていたときでもありましたので、「アジア女性フォーラム」の事業等に一億円を使ったと聞いています。それとは別に、地域的な、街おこしをするところに対しては特別の補助金を出そうという制度もありました。 昭和62年にその案が示され、翌年度には決定をする。国の場合は思いつきで出してきて、早くその計画をもってこいと言うことがよくあるのです。
そういう提案があったので北九州市も是非この制度に乗ろうと、いろいろと案を考えました。市は以前から街の活性化のために企画局が中心になって準備を進めて来ていましたし、門司港の場合は港湾地区の、西海岸の埋め立て地をどう活用するかということで、港湾局でも「ポート・ルネッサンス」計画を進めていました。
北九州市では4つの候補があがりました。その中で“門司港レトロが一番面白い、これがいいのではないか”と北九州市にこられていた自治省の課長からもアドバイスがありまして、「門司港レトロ事業」を、ふるさと創生に載せろうということになったわけでございます。門司港はバナナの叩き売りにもありますように、門司は九州の大都会と歌われており、戦前は本州、九州の玄関口、大陸貿易の玄関口で、交通の要所として発展してきたところでございます。 その後昭和17年に、関門海底トンネルができ、昭和33年には国道トンネルができ、昭和48年には関門橋ができたことで、門司が通過地点になり、又戦後は大陸との関係も途絶えたことにより、かつて繁栄した門司港地区がゴーストタウン化してきていたのでした。
そこで門司港地区を、どういうコンセプトの街づくりにしていくかということになり、門司港は大正時代に作られた古い建物が残されておりましたので、これを保存活用し、門司港駅やその周辺を、大正ロマンあふれる街づくりに。そして関門海峡や瀬戸内海国立公園の西の端であります和布刈公園などは、自然を生かした街づくりにする。 いわゆる「レトロめぐり、海峡めぐり事業」で行こうと、計画を作り、国に提出し採択を受けたわけです。
異動の辞令をもらって職場に行きました。門司港レトロ室は一年半前、平成元年10月にできたわけですが、その1年半はほとんど事業が進んでいない苦難の時期でございました。二代目の室長として私が行っても、そんな急に進展する状況でもありません。職場に行ったときに職員の表情が暗いのです。職員に聞くと“事業が全然進んでいない。今まで飲み会もしたことが無い。旅行も行ったことも無い”というのです。何をしていたのかと聞くと、毎日が会議会議に明け暮れたと言うことでした。“そんなことでは話にならんな、これからは難しい問題は室長が先頭に立ってやるから、各職員はそれぞれの任務をきちっとやってくれ。職場全体が一団となって取り組んでいかないと問題解決はおぼつかないぞ”と言いました。そうはいっても、肝心な建物や土地の買収が進まないのです。
門司港レトロ事業には協力すると言う企業についても、移転や用地買収交渉はなかなか進まない。当時はバブル期でありましたので、企業はお金が余っているわけです。移転交渉等では、いわゆる金銭での解決は望まないわけです。代替地がほしいというのです。市のほうでも適当な代替地がそうたくさんあるわけではありませんし、市の事業はレトロ事業だけではありません。そういうことなどで私が行った平成3年のときが一番苦しい時期でした。
議会ではレトロ事業は、行政が一生懸命やっているけれど一歩も進んでいないではないか、こういう都市型観光の街づくりは行政だけではできない、地元の住民や企業などが参加してこないとうまくいかないと言われ、市政にとっても大変な時でした。 民間関係については、門司が発祥地であります出光興産、準大手のゼネコン間組、などが中心となり市内の企業12社が出資し、「門司港開発準備会」を作り支援して行こうということになりました。
当時、5000万円のお金を集めましたが具体的な事業展開が見えない。行政も用地取得が難航して、一歩も前に進まず立ち往生しておりました。 土地の取得が難航し、民間事業の姿も見えないので、議会からは市はもう門司港レトロから手を引いたほうがいいという意見が出てくるわけです。 末吉市長は、“いや門司港レトロは、門司港の地盤が沈下しているので、普通の観光地みたいに民間が先行し、行政が後押しするような街づくりではうまくいかない。行政が先行していけば、必ず地元や民間企業がついてくるのだ”という苦しい答弁を繰り返しながら議会を乗り切った経緯があります。当時のマスコミからは「民間サイドの事業行き詰る。」「門司港レトロ見直す」と言う見出しの新聞記事が出されたこともありました。「方向転換・迫られるレトロ事業」「赤字見通しに企業足踏み」という非難記事もありました。
難航していたレトロ事業の転機となったのはバブルの崩壊でございます。今までお金がだぶついていたので、企業はお金は要らないから代替地をくれと言っていたのが、金融が引き締まってくることによってお金で解決しようと言うことになったのです。一転して用地買収や、建物移転の交渉が解決に向けて進んでいったのです。いわゆるバブルについての功罪はいろいろありますけれど、門司港レトロはバブルの崩壊がレトロ事業の推進の大きな引き金になったといえるわけでございます。
建物移転の問題については、30社位が対象になっていましたが、中にはもう門司港に見切りをつけて小倉とか博多に移るという企業もありました。レトロ事業は街がきれいになりレトロ観光の街にすることでもありますが、そのために企業が逃げて門司港の活性化が途絶えることになると本来の街作りの趣旨ではないのです。移転する企業を何とか門司港に食い止めるために代替のビルを建てることにしました。民間に働きかけて、代替ビルを建ててもらえないかと、投げかけたのですが何処も手を上げてくれません。そんな採算の合わない事業はできないと言うのです。 しかし移転が進まないとレトロ事業は進まない、そこで市の住宅供給公社、いろんな市営住宅をたて管理しているところでありますが、そこに代替ビルを建ててもらい、採算の合わないところは市との関係の中で何とか埋め合わせてもらうことにしました。
代替ビルの建設交渉が終わり、いよいよ移転の段階になったときに家賃で、行き詰まりました。前任の室長から家賃は解決していると聞いており、坪5800円で話はついているのではないかといいますと、民間の方たちはいやそんな話ではない。確かに5800円以下にすると、いうことはいわれたけれど5800円でいいと言う話にはなっていない。我々の方は坪5800円で移転することはとうてい無理だというのです。もう一回仕切りなおしで家賃交渉をはじめていくわけですが、市ではすでに坪5800円の予算で代替ビルをたてる計画でやってきているわけですから、今さらそんな話を持って行っても何処も相手にしてくれない。住宅供給公社の親元の建築局に行っても門前払い。助役のところに行っても、レトロ室がそれでやれるといったので予算を組んだ。今更そんな話を持ってきても乗れんよと、けんもほろろ。
しかし、これを解決しないとレトロ地区の肝心な場所が整備できない。そこで住宅供給公社に何度も行きました。公社からはもうレトロ室は出入り禁止と言われシャットアウトです。 出入り禁止といわれてもこれが進まないとレトロ事業はここでお手上げをしないといけない。職場に帰って職員を集めて、“よし明日から毎日、供給公社へ行くぞ。そして挨拶だけして帰るといい。”と三ヶ月通いました。さすがの住宅供給公社も根負けし、もうレトロ室には負けたと。 そして財政局などの協力を得て、何とか家賃交渉が解決した訳です。このことでマスコミから、「家賃交渉で二転三転」という見出し記事で批判を浴びました。
国の「ふるさと事業」は三ヶ年の時限立法でありましたので、早くしないと期限が切れるのです。和布刈地区などの公共の用地のところは計画通りに事業が進むわけですが、門司港地区周辺は、用地買収、移転交渉が、難航したので遅れていたわけです。 時間も迫ってきているし、できるとこから事業をやっていかなければいけないと思い、道路や街灯などの整備を先行してやりました。 ところが市長から、“レトロ室は馬鹿や無いか。なんで道路を先行してやるのだ。そんなことをしたら用地交渉の値段が上がるではないか。直ちにやめろ”と怒られ。一年間工事をストップしたこともありました。
家賃問題が新聞に出たので、市長のところへ行ったら“木戸くんこういう、都合の悪い話は早くあげてくれ、いい話は後でもいい。”と言われました。 公務員や民間企業もそうですが、都合のいい話はすぐ上がるのですが、悪い話はなかなか上に上がらないのです。室長の上には局長がおりますが、局長はレトロ室の他にも多くの事業を抱えているので、局長を通じて助役、市長に上げていくにしても不十分なところが出てくるのです。 レトロ事業は時間がないので即決して事業をやらないといけないこともあり、それからは毎月一回、市長に直接会って協議をし、指示を仰ぎながらやっていきました。
そこで、2〜3、建物について逸話を申しあげますと、「旧門司三井倶楽部」ですが、これは大正時代に三井物産の宿泊、あるいは社交倶楽部として建てられて、戦後、財閥が解体となったことから国鉄が買って所有していました。 当時は清算事業団の所有でありましたが、老朽化していたので、これを壊してその跡地を活用することにしていました。 門司港駅前から約4〜5キロ離れた山手に「谷町」と言うところにありました。 国鉄時代は「門鉄会館」として職員の娯楽施設、厚生施設、として使われていました。また、ちょっとしゃれた結婚式場が一階にありました。私の姉や親戚もここで結婚式をあげたことがあります。これと同じような建物に戸畑の「西日本工業倶楽部」がありますね。そこは今でも結婚式等がやられているようです。当時は100人も200人も集まることはありませんし、せいぜい30人か50人くらいの結婚式ですから、ちょうどいい雰囲気の結婚式場として活用されておりました。この建物が解体されることになり、地元から議会に是非三井倶楽部を残して欲しいとの陳情がありました。
残して欲しいといっても市が何に使うのか。また、そんなお金をだす余裕はありません。しかしレトロ事業で活用すれば、国の補助金も下りるので保存できるかもしれないとして、門司港駅前に移築しようと考えたのです。 ところが難問題があることがわかったのです。木造の高層の建物については、あそこは防火地区でありますから、建築許可が下りない。 建築基準法では13メーター以上の木造建築は高さ制限があるのです。 三井倶楽部は高さが18.5メーターなので基準より5.5メートルも高い。これでは許可が下りない。ところがいろいろ研究していくと、建築基準法には除外規定というのがあるのです。除外規定では普通の建物ではだめだが、国の重要文化財であれば可能だとあるのです。それでは国の重要文化財に指定してもらおうということになり、当時の文部省の文化庁に掛け合って担当官に見てもらったら、いけるかもしれないといわれました。 そこで重要文化財に指定いただいて、門司港駅前に移築することになったわけです。
重要文化財は現地で建物の補修をし、修復することがほとんどでありますが、全面移築して保存するというのは全国的にもあまり例が無いのです。しかも重要文化財は壊して新たに作るというのではなく、あくまでもその原型を維持し建設当時の姿を、再現することなので、建物の梁や支柱などは一本一本、丁寧に剥離して、保存し、それを使ってまた組み立てるのです。そのため、文化庁の技官がずっと付きっ切りで指導をする。当然時間もかかるし、お金もかかるわけです。
国の重要文化財なので、移築の途中、二回程市民に内部構造などを公開しました。
移築には4年半かかりました。 市も業者も重要文化財の移築に関する経験が無く設計もしたことがないのです。 そのうえ、文化庁の技官が、微に入り細に入り指導するものですから、時間がかかり、業者も大変な赤字であったと思われます。 途中で設計変更をして、工事金額を増しましたが、それではおっつかない、ただ民間企業の場合は赤字になっても重要文化財を手がけたことが企業の実績として残り、それが信用となることから、赤字でもやっていただいたのです。
それからもう一つは建設された翌年に、ドイツ人でノーベル物理学賞を受賞されたアインシュタイン博士がこの三井倶楽部に泊まりました。その時は九大で講演をして、博多と門司に泊られたわけですが、博多では「大黒屋」と言う旅館に泊まられたそうです。当時福岡ではベッドが無かったのです。布団を何重も重ねて、ベッド代わりにして寝て、朝食のパンは、門司港まで買いに来て出したそうです。三井倶楽部ではベッドもあり、門司港にはパン屋さんもあったのです。当時の博多と門司港のレベルは、そういう状況でありました。
お金のこと云うのもなんですが、他の「旧大阪商船」や「国際友好記念図書館」などは10億円から12億円くらいでした。 三井倶楽部は32億円かかりました。半分は国からの補助金をいただきましたが、当時であるから思いきって出来たのです。今では到底そういうことできません。当時は無駄遣いじゃないかと言う声も起こりませんでした。
それから「国際友好記念図書館」ですが、北九州市と中国大連市とは友好都市を結んでおりまして、同じ港町、港湾都市という事で関係が深かったのです。レトロ事業の当初の計画には無かったのですが、市長が大連に行ったときに港のターミナルに円形のすばらしい建物がありました。よしあの建物を門司港に持ってこようと言っていたのですが、次にいったときには建物は壊されていたのです。そこで、大連にある建物で、日本人が設計した歴史的な建物を調査することにし、東大の学者等が現地に行って調査し6つぐらい候補を上げてもらいました。その中から選ばれたのがあの建物であります。ロシア時代に「東清鉄道の事務所」として作られ、その後、「満鉄の大連クラブ」「日本橋図書館」、と返遷し、当時は「共同住宅」として何世帯も住んでおられました。
ところが建物についての充分な図面がないのです。 そこで現地で建物調査をすることにしました。 調査には、長崎のハウステンボスを手がけた、学者や設計会社が、九大や九州芸工大の学生を14人連れて、現地で10日間調査をして帰ってきました。建物は三井倶楽部のように全面移築する訳にはいきません。
そこで、できるだけ創建当時の姿を再現することと日本の建築基準法に合わせて補強することとし、レンガと石材は中国のほうから輸入して建てた訳です。 建物の一階は友好の記念でもあるので、本場の中華料理店を中国から呼んでくることにしましたが、二階はまだ用途が決まっておりませんでした。そういうときに、マンション問題が起こってきたのです。マンションが建設された場所には以前、赤レンガの倉庫があって市が手に入れようと交渉しましたが折り合わず他の民間企業に渡りました。そこで、その民間企業と再度交渉してきましたが値段が折り合わず交渉は膠着状態になっておりました。民間企業の方もこのまま置いていると市がなにをいってくるかわからないと考えたのか、その赤レンガ倉庫を壊し出しました。市は跡地利用として門司港で採算が取れるのはパチンコ店しかなかろうと考えました。もし、あんなところにパチンコ店ができたら門司港レトロが台無しになるので、何とかこれを食い止める方法はないかと知恵を出しました。
「風俗営業法」に基づき県に施行条例、というのがありまして遊戯施設とか娯楽施設などは公共施設から何メーター以上離れていないと建設することはできないと言う規定があります。かといってあの近くには公共施設が無いのです。それでは隣の大連の建物を、公共施設に位置づけようと考えました。ただ行政の建物ということだけではだめなのです。条例で制定された建物で無ければだめなのです。そこで、かつて「日本橋図書館」として、活用されたこの建物を、図書館にしよう、図書館にすることでパチンコ店を排除することができる。だが図書館は各区に一つずつあるわけです。2つも門司区にあるのはおかしい。しかし小倉病院、今の医療センターに、医療関係の専門の図書館がありますので、門司では中国、東南アジアを中心とした図書館にしようと、いうことになり議会に図って、「国際友好記念図書館」としました。
ところが企業は、マンションの建設を市に申請をしてきたのです。そのマンションたるや、近くにあります公団住宅みたいな形で、いわゆる四角の景観も悪いマンションでございました。 そこにそんなマンションが建つと門司港のほうから和布刈が一望できない。ましてマンションに布団なんか干されたりすると、レトロ事業が台無しになるので思いとどまってほしいと言いましたが、業者にとっては死活問題ですから、撤回はしない。市に出された建築確認申請は建築主事がその許可をだす権限持っているわけです。市長の“阻止しろ。”と言う指示で地元住民にも反対の協力を求めてきました。 建築確認は建築物の構造が建築基準法に基づいて、適合しているかどうかを判断する審査でありまして、景観は審査の対象になっていないのです。ただ日照権などで近隣住民とのトラブルがあれば円満に解決しなさいという条件が付く位なのです。 市が建築の許可をおろさないので業者は、行政が判断をしないのは違法だとして裁判所に訴えるわけです。
裁判になり地元でもいろいろと景観論争をやりました。しかし今の法律では北九州市のほうが負けることが明らかなのです。市長は負けてもやると強気で、これは最高裁まで持ち上げるぞという意気込みでした。市がこういうことをするのはどうかと思いますが、周辺の自治会や住民にもぜひ反対してほしいとお願いし、議会にも陳情してもらいました。そのときに私は市長に“この裁判は負けると思いますが本気でやるのですか”という話をしたら、市長は“おおやるぞ”と言うのです。“市長は時々コロっと変わることがあるので本気でやるなら私も一生懸命やりますが、途中で二階から梯子段をはずすようなことしないでくださいよ”“市長は辞めたら何処行くか知らないが、私は市をやめても門司に住まなければならないので、住民をその気にさせて梯子段をはずしたらもう門司に住めなくなります。これだけは守ってくださいよ”と言うと、“俺はやる”と言うことでした。二回も裁判官から和解してはと言われました。業者との和解交渉は難航し、平成7年の門司港レトログランドオープンまでには解決しませんでした。 その後引き継いだ、建築局や、担当の助役等が折衝し現在のような建物で和解しました。設計は黒川紀章氏に頼む、31階建てで一番上は市が展望台として買おう、ということで折り合ったわけです。 いろいろな住民や建築の専門家から、あの建物がなぜレトロなのかという批判がありましたが、さすがに世界的にも有名な建築家、黒川紀章氏、“自分は外国でもこういうのをいくつか手がけてきた、この建物は後に平成のレトロになるのだ。”との一言で皆シュンとなり解決したいきさつがありました。
企画局がレトロ事業で最初港湾局の計画をさらっていったしこりもあってか話が付かず、一年が経過しました。住民もマスコミの方も今か今かと、発表を待ち望んでいたのです。二つのホテル構想については大方の見方では企画局のほうが良いのでは、と言う風評が立っておりましたが、港湾局がなかなか折れない。そういうときにNHKの記者で、熱心に取材してきた方が、“木戸さん私、この度、長崎のほうに異動になります。ずっとレトロのホテル問題を取材してきましたが、見切り発車で出しますよ”と言ってきて、その日の夕方のNHKニュースで放映したのです。他のマスコミ各社はびっくりするし、市では誰がそんなこといったのか、今日の海上保安庁の問題ではないですが、犯人探しが始まる。
港湾局は反対のほうですからこれをやるのは、市長か木戸しかおらんと。市長はそんなことは言わないと思うのでと、私が犯人の濡れ衣を着せられました。当時市の広報とマスコミとの関係は非常にうまくいっていましたし、市政についてのすっぱ抜き記事を自粛するため、大事なことは市が共同記者会見で発表するというルールになっていたのです。以前ルールに違反した広報室長が左遷されたことがありましたので、私もこれでアウトだなと思いました。 その後、マスコミは発表が近いのではと取材で追っかけてくる。職場は勿論、家まで追いかけてくるのです。今度疑惑をかけられたら完全にアウトだと思い、発表前日は職場に帰らず夜は姉の家に泊まりました。ところが当日それなりのニュースが出ていたのです。そういうことで私の疑いも晴れました。
ホテルの建設場所は市の用地であるので、第三セクターとし、主要企業三社が51%の出資、北九州市が25%、その他は地元企業等が出資をすることになりました。しかし、ホテルに市が出資をするのは問題ではないかと言われかねない。従って、ホテルに業務ビルを併設するということで、議会の承認をいただき出資をしたのです。
ホテルができた最初の頃は大変人気がありましたが、行ってみたら、食事はまずいは遅いは、冷めたのが出てくるわと言うことで、半年くらいで人気はガタ落ち、そこで、ホテル側も調理師を替えたり、体制を整えて巻き返しを図っていき今日の人気となっているのです。
当初民間企業や地元住民が立ち上がらないということで心配していましたが、マンションやホテル問題などを通じて前面に出て来るようになり、今の門司港レトロのソフトの面をささえているのです。 末吉前市長は、当初門司の民間が立ち上がらないと言っていましたが、今では北九州市の街づくり団体では一番よくやっている。と、言っておられます。
最後に私が手にしている「門司港レトロ物語」と言う冊子がありますが、これは門司港レトロ事業などに携わった人たちがまだ記憶の新しいときに、本を作ろうということになり、単なる記録誌ではなく、国や市の縦割り行政のいろんな問題点とか、職員などの苦労話を赤裸々に書いた本です。当時1000冊作りましたが、瞬く間に売れまして、増刷、増刷をしてきました。今も、旧門司三井倶楽部等に置いています。発刊によせては市長が書くので、あとがきはお前が書けと言われ、レトロ事業の感動の冷めないときに書きました。興味のある方は一読していただければ幸いです。
非常に駆け足で、このレジュメに基づきお話をさせていただきました。私の講演はこれで終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。