北九州市立大学同窓会

HOME >平成22年度北九州市立大学公開講座

平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演)
基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」

「北九州市立大学の現状と将来を語る」
 北九州市立大学前同窓会会長 北九州市元収入役 
                       山下 建治(S33・商学部商学科卒)
※画像はクリックで大きくなります。
1

24

皆さんこんにちは、山下でございます。
この公開講座についていま山崎先生からお話しがありましたが、本当はもう一人ですね立派な卒業生がおりまして、ウエザーニュースの石橋社長さんにお話をするようにしていたのですが、不幸なことがございまして、とうとう私が最後に引っ張り出されてしまいました。どのようなお話になるかわかりませんがどうぞよろしくお願いします。

2

3

4

5

 私に与えられたテーマは「北九州市立大学の現状と将来を語る」というテーマでございます。しかし講演の項目として、長い間、北九州市役所に勤めておりましたので市役所での体験談が中心になろうかと思います。体験談ですからいろんなことがありましたとか場合によってはここだけにとどめておいていただきたいということも申し上げたいと思いますし、若干手前味噌もあるかと思いますがお許しいただきたいと思います。
 昭和二十九年に私は当大学の商学部に入学いたしました。自宅から十五分くらいの距離ですから、小学校、中学校、高等学校、大学、勤務先を含めて、一番近いところです。
 夏休みはしょっちゅう大学に遊びに来ておりました。中学校から高校学校まで陸上競技で中長距離を走っておりまして、一時は高校選抜で実業団と一緒に朝日駅伝を走ったこともあるのですが、無理がたたって一年でだめになってしまいました。大学に入りましていまさら陸上競技ではなかろうということで空手部に入れていただきました。先ほど申し上げましたように、夏休みしょっちゅう大学に来て練習やっていたのですがこれもオーバーワークになりましてこれも一年で頓挫してしまいました。でも何かやりたいということで、ワンダーホーゲルという同好会を作ったのですね。歩くことならいいだろうと、ところが、これも部員が集まらずに、大学側から山岳部と一緒になれとこう言われたのです。上級生になって山岳部に入れば後輩たちが迷惑をこうむるわけですね、ですから現役時代には山岳部の部活動はしておりません。しかし籍だけは入れていただきました。そこで卒業後山岳部に籍をおいておったのに山のことを何も知らないということではいけないので卒業後に現役の学生と一緒に山に登りました。冬山にも行くし岩登りもするし、いろんなことを教えてもらいました。

 ですから私の山の師匠は全部後輩です。一人で登れない山もザイルをつないでいけば困難に打ち勝つことができる。冬の山に行くにしてもパーティーを組んで極地法でやれば困難な山もこなすことができる。
 いろんなことを教えてもらいました。冬山のことにつきましてはこの講座で横光衆議院議員が北アルプスの爺ケ岳で遭難した時の話をしておりますので如何に山が厳しいか、そういう状況の中で困難を克服していくのだということを学びました。そういうすばらしい山岳部ですけれど、現在現役の部員がゼロという悲しい状況になっております。
 それからもう一つ私がこの大学に関心がありますのは、三浦幸吉という先生がおられたわけです。哲学の先生です。山岳部の顧問の先生でもあります
 私の学生時代は何もかにもが中途半端、挫折感に浸っていたものですから、相談した卒業後先生の所へ行って、このままでは社会に出ても中途半端になりそうだということを相談したところ、三浦先生が、じゃあ君にいい言葉を教えてやろう「今をまじめに」こういう言葉をいただいたのです。これは哲学の先生の言葉でして、その意味は、二十世紀後半に入っているこの今、二十歳時代の青春時代のこの今、それから職場で仕事をしている今、そして日々人と接している今、その「今をまじめに」しなさい。そうすれば、君のその悩みがなくなるだろうと。これが私の座右の銘になっております。書道の専門家に書いていただきまして、額に入れて、今でも家に飾っております。
 そのように私は、北九州大学とは山岳部との関係が本当に強いわけであります。
 それから市役所に入りました。ここに恥ずかしながら経歴を書いたのをお配りしておりますが、いろいろ、あちこち転々としております。ここに記している以前にも、福祉事務所のケースワーカーとか、税の仕事とか、選挙の仕事とか、五市合併事務所での仕事をしたとかいろいろあります。先に「レトロを立ち上げた男」の木戸さんの話しの中で、ケースワーカーをした話しがありましたが、青二才が人生で失敗したといいながら、われらの先輩を指導するなと僭越なことがあって大変な苦労がありました。
 五十九才で平成七年に退職するまでに三十箇所くらい職場を変わっております。新しい職場にいき仕事を覚えるすぐ職場を変わるというのでは、あまり仕事ができないのではないかという意見があるのですが、それぞれの職場にはその道の通、鬼軍曹のような職員がいるのですね。その道一筋。その職場に関係する法令条例なんでも知っている。それから言葉は悪いのですが、うるさい市民が来たらあの人は気をつけなさいよ、あの人は大丈夫ですよとそういうことを全部教えてくれるのです。そういう人たちと一緒に仕事をし、一人ではできない、チームを組んでやる。こういうところで人間関係の大切さ。というのを勉強させていただきました。
 市役所で一番経験、体験があって思い入れがある事業は、北九州市のイメージアップ事業というのを担当した時のことです。これは都市CI、「シティアイデンティティ」それから市役所CI、「コーポレートアイデェンティティ」ということです。辞令をもらって市長が末吉さんですから末吉さんのところへ挨拶に行きました。「「CI」というのはよくわかりません。今から勉強します。勉強してまいりますからよろしくお願いいたします。」と、形通りの挨拶したのですね。そしたら市長が「やめとけ。君、年は五十になっているだろう。いまさら勉強しても間に合わない。」こう言われたのです。それで若いやつにさせろ。というのです。「若いやつにさせろ。若いやつにさせたらどんどんするから。そしたら君のような連中が必ず邪魔をしに来る。そのように邪魔をする人たちの邪魔をするのが君の仕事だ」そういわれたのです。こんなその訓示をもらったのはまったく初めてですから、私にはわかりませんでした。「CI」というのはイメージをあげることですから、明るく楽しく気楽にやればいいと思っていたのです。末吉さんというのは非常にリーダーシップの強い方で、後日労働組合の幹部とこの話をしたことがあります。労働組合の幹部というのは皆さん頭がいいのですよね。頭がいいけれども職場に不満があって組合活動に走っていく。そして非常に感がいい。その幹部が「CI」がわかっているのは、山下さん市長が一番ですよ。」というような話をしたこともあります。
この「CI」というのは企業のシンボルマークとかロゴマークを変更する、企業のイメージアップの総合戦略なのです。それを行政の中に取り組もうとしているわけです。これは60年代の初めに東京都が一番さきにてがけたのですが、北九州市もそれを手がけよう。北九州の街はご承知のように、かつては鉄の街・工業の街として栄えていきました。ところが産業構造が転換いたしまして、重工超大から軽薄短小。そういう時代になったのです。都市「CI」に取り組むことになった。北九州市のイメージをあげるにはどうしたらよいか、まずイメージの悪いところを全部洗い出そうと、そういうところからはじめたのです。人口の減少がありますね。今は百万人を切っております。これは一つの例を挙げますと、新日本製鐵八幡製鉄所がありますが一時は、五万人の社員がおりました。たとえば一人の社員が君津へ出て行くとすると扶養家族、下請け関連含めて七人くらい出て行くことになるわけですね。ですから今は新日鉄の社員は五千人位、生産性はあがっているようですが、如何に人口が伸び悩むか、それは新日鉄で無く、三菱化成だって水島にいきましたし、そういう状況の中ですから人口が減る。従って企業誘致を取り組まなければいけない。それからもう一つ、イメージを落とすのは北九州市の街は、イメージの悪いところ探し出すのですから、灰色の街だといわれていたのです。煙・工場から出る煙、煤煙。等々。
 家庭のお母さん方も煤煙のために洗濯物で汚れる。しかし自分の主人や息子が働いている会社が出すのだからと、我慢してきた。しかしそれが、非常に激しくなって、洞海湾にも魚がすまなくなったということから、環境問題・公害問題に力を入れたのです。企業と民間と行政とでやりました。おかげで今立派な街になりました。環境モデル都市になりました。
 今では、全国から視察団が来るようになりました。外国からも来るようになりました。以前はそういう灰色の町というイメージがありました。
 それから次に乱暴ものが多い。いわゆる暴力団が多い。暴力団が暴れる町だと、今は暴力追放に取り組まなくてはなりませんが、北橋市長も先頭に立ってやっておりますが、なかなかうまくいかない。これもやらなければならない。もうひとつですね、北九州という土地柄があるのではないかと、風土。言葉が非常に激しいですね。     
 私は小倉北の区長をしているときに、自治会のお偉方と福岡に研修に行った時の事ですね、研修の帰りにせっかく来たのだから、太宰府天満宮におまいりしようと。太宰府天満宮におまいりしました。小雪が舞う非常に寒いときでした。記念写真を撮ろうと思っていたのですが、なかなかうまく撮れないのですね。バスガイドさんが、「右の人左によってください」「後ろの人寄ってくださいと」それで寒いのですよ。もういい加減にしてくれとなったときに。一番前にいた自治会のお偉方が「お前が下がればいいやないか」と大声をだしたのですね。それでバスガイドさんが後ろに下がって写真を撮ったのです。ですからその自治会のお偉方に「どうしてそんな大声を出すのですか?」といったらその役員が帰りのバスの中で「わしゃガイドさんが、かわいそうでたまらんかった」とだから「後ろに下がれ」と親切に言ってやったと。
 ところが区長のやつは俺に「態度が悪い」と文句言うのです。気持ちと口から出てくる言葉が裏腹な面、ちょっとそういう面があります。私も家内と時々街に出て時々大声を出して顰蹙がられお叱りをいただいておりますが、これは直りませんね。直さないかんと思ってはいますが。
 先日も、東京から帰って来た女性に会ったのですが、母親が上京してきた。二人でタクシーに乗っていろいろ話をしていたらタクシーの運転手さんから「クルマの中で親子喧嘩はやめてください。」と言われたというのですね。そうかなと思いますが、そうなのですね。
 それからもう一つは、文化の砂漠と言われていたのです。音楽会とか絵画展とかそういうものが乏しい街だと。今はそうでもありません。文化の砂漠、北九州市も美術館を立てようと美術館を建てました。丘の上に立てました。この位置にめぐってはいろいろありました。
 足場が悪いとかあったのですが。これは、谷伍平市長のときにインフラ整備で実現しました。その後美術館に絵を飾っているのですが。自慢できる絵が無い。後日モネの「睡蓮」という絵を買ったのですが、これについては本当に恥ずかしい話があります。
 西洋の小話にこういうのがあります。
 ある社長婦人が美術館に行ったそうです。社長婦人が来たということで、美術館の職員がつきっきりで、説明してまわったのです。そしてある絵の前にきたときに、その社長婦人が「私は絵のことはわかりません。しかしこの絵だけはわかりますピカソでしょ」とこう言ったそうです。そしたら美術館の方が「それは絵ではありません。鏡に映っているあなたです。」こういったらしいのです。これは西洋の小話ですが。実はモネの絵を買うにあたって、億単位の絵を買うわけですから、市民の皆さんにお見せしないといけない。こういう高価な絵を買いますから美術館に来てください。そこで市政だよりに載せました。あの絵は百二十号の大きな絵なのです、そして少し黒っぽい。それをこんな小さなコマにして載せたのですね。市民から電話がかかってきたのです「モネの絵が市政だよりに載っているけれど、あれはさかさまですよ」というわけです。調べてみたら、モネの絵をさかさまにして市政だよりに出してしまったわけです。チェックが甘いと言えば甘いのだけれど、北九州市の職員の絵に対する文化度がこの程度か。と言われそうで。じゃあ訂正しなければならないどうするか。いや判りはしないのだからこれでいいよと言う意見もありましたが、それは百万市民に出したわけですから。訂正記事を出そうと。市長のところに行ったのです。しかられる覚悟で、広報室長と一緒にいきました。 しおれた顔していくものですから、末吉市長も察したのでしょう。赫々云々、そうしたら市長が「そうか、美術館に頼んでさかさまに展示してもらえ」というのが市長からのお叱りの言葉でした。
 それから、億単位の絵ですから、議会の議決をもらわなければならないので、議員に説明に行きました。恥をしのんで説明しに行くと議員さんは失礼ですが誰一人気がつきませんでした。そういう状況がございました。

6

7

8

10

 ほかにもいろいろなことがあったのですが、この町にはへそが無い。谷伍平市長のときは多核都市論で五つの町の多核都市論やってきました。末吉市長になって町にへそが無いからそれはいかんということで、小倉を都心、黒崎を副都心。としました。そしたら黒崎の方が怒って「何で小倉の下が俺たちか」と言うことになったのですが。求心力が無いというような問題。
 都市基盤整備でもそうですが、空港が無い、高等教育研究機関が少ない、そういうことがありまして学術研究都市を作って北九州大学の先生方も今やっていただいております。
 そういう風に北九州市のイメージを変えていかなければならないということで、市民参加のPR映画絵を製作することになりました。「星空の町への招待状」という市民を主体にした、ミュージカルなのですね。ミュージカル映画市民を主役にした。ここにおられる方で出演された方おられるのではないですか?いませんか?市民を公募したわけで、公募して東映の小野沢監督という方にお願いして、それでオーディションを開いて若い人を中心にやって公募したのです。そしたら、私もイメージアップ担当しているものですから、職場の担当職員から、イメージアップの責任者のあなたもオーディション受けなければいけませんよというわけです。私はおたまじゃくしも読めないし、ダンスなどしたことが無い、そしたら職員がオーディションを受けに行けと言うのです。

 その張本人が今日私を手伝ってくださる三枝くんなのですが、今市の課長をしておりますが、行きなさいというのです。仕方ないのでオーディションを受けに行きました。審査員は変なおじさんが来たなという感じでしたが、いろいろはなした結果、いいでしょうということで選ばれました。
 一週間に一回、体育館で練習するわけです指導者が付いて。週末には門司区を始め市内各所の、主だったところダンス練習をするのです、苦痛の種でした。あるとき体育館で休憩時間に休んでおりますと、東筑紫女学院の高校生が私のところへ来て「おじちゃん、手と足が反対よ」というのです。私はついていけないのです。マイケルジャクソンさんアメリカの歌手、ダンサー、マイケルジャクソンさんがこう言っています。
 ダンス、踊るというのは考えてはだめだ。体で感じるのだ。こういうことを言っています。
 私はだめです。感じることなどできない。北九大の体育館の前でも学生がダンスしていますが見事ですね。よく体が動く。私の場合は脳から指令が出て、今右手上げる、今左足動かすということです。その東筑紫の女学生も見るに見かねて、私の所へ来たのだろうと思います。
 そういうことで、PR映画できあがりました。それで試写会があったので見に行きました。出演した自分が、いつ出てくるか期待してみるわけです。期待するじゃないですか。いつ出てくるか、見ても見ても出てこない。そして出てきたのは車いすを押す場面だけ。私の踊るダンスはオールカット。さすが監督さんも私の出番を作ってくれたのです。でも今考えたら私がダンスする映画にでても、PR映画になりませんよね。そんなの見たら来る人も来ない。でもこういうことがありました。
 ミス北九州これにもいろいろあるのですが、ミス北九州を先頭に宣伝してまいりました。イメージが変わってもこれをPRをしなければならない。この街は灰色の街じゃありませんよ、美術館もありますよ。芸術劇場や音楽ホールもありますよ、そういう風にPRしなければならないと思うのです。

 先日、美術館で「モネとジヴェルニーの画家たち」という展覧会がありまして行かれた方が折ると思いますが、これには8万8千人の方たちが市の内外からお見えになりました。
 その次にリバーウオークで「ポーランドの至宝」というのがありました。これも私も見に行きました。
 土曜日に行ったのですが満員札止めなのですよ、多くの人がいて時間がかかっていました。中に入ったらゆっくりご鑑賞ください。止まらないでくださいと。美術館の方が言うのです。私の後ろで、ご婦人が話していました。「北九州市もやっと福岡市に追いついたわね。」とこういう会話がございました。「まだまだだよね」という会話が、もう一人の具婦人が「下関市もがんばっているのですよ。下関美術館で今度こんなのがあるから行きましょう。」という会話がなされていました。まさに文化面においても、都市間競争が始まっているのですね。そういうところに力を入れていく必要があるのではないかと思います。で、今では音楽会も協賛企業をいただいて、国際音楽祭というのができるようになりました。この町は工業の町ですから、企業が社員の皆さんに、音楽会のチケットとか展覧会のチケットというのは福利厚生で渡して文化教養を高めることをやっていたわけです。企業が、ですから社員の方は、音楽会というのは会社がくれるものだと、自分でチケットを買っていこうという希薄の薄い層が若干いるのですね。文化面ではそういう経過があります。
 でもようやくここまでやってまいりました。

9  次に市役所のイメージアップ。市役所のイメージアップをやらなきゃならないのですが、市民の皆さんから見た場合、一般的に市役所というのはイメージが悪いわけで、ぞんざいなものの言い方をするとか、あるいは横柄であるとか、親方日の丸であるとか、事なかれ主義であるとか、そういう評価が一般的にあります。市民課の窓口に市民の方が他都市から転入してきて、転入届を出したとします。そのときの窓口職員の対応が極めてまずい。横柄であったら、その市民はなんと申しましょう。「北九州市の職員はこんなのかと。何人職員がいるか知らないけれど皆そんなのか、市民もそんなのかとなってしまうのです。それで、逆にいい対応をしたとします、そうすると「アー良いね、前の市役所よりここは良いね。こんなに親切やね。この町に住んでよかった。」こうなるわけです。いわゆる個が全体を評価してしまうのです。企業でもそうだと思うのですが、窓口というのは顔なのです。その個が全体を評価してしまう。これは「ホロニックパス」というそうです。

 全体と個との調和の道筋。ということですね。ですから、窓口職員の接遇、研修なんかををやらなければならない。やったのですね。今までは内部の職員でやっていた。同じ釜の飯を食ったものがやったって改革はできませんから、外部から、企業から、銀行から民間から講師を呼んで研修をやりました。

 また話は変わりますが、四年に一度、市長選挙があります。
 市長選挙の選挙事務所に私の先輩が勤めておりましたので、表敬訪問にいったのですね。そしたら「いらっしゃいませ。どちら様ですか」と言ってくるのは全部民間から来た、応援の方々なのです。私の目指す先輩は奥のほうでいすに座って、めがねごしに誰が来たかなとこういう態度とるわけです。失礼を省みず「あなた票を稼ぐ仕事をしているのでしょ。あなたも「いらっしゃいませ」と言ったらどうですか」といったのです。
 先輩は怒りまして「俺も出て行きたいんや。出て行こうと思うのだけど足が言うことをきかんのだと」こういうわけです。それは訓練されていないのですね。その先輩たちの時代は、まさに労使紛争の激しい経験をいたしまして、組合が押しかけてくる。それから同和問題の関係者が押しかけてくる。新聞記者が取材に来る。そういうことでかまえてしまうわけです。 かまえて「誰が来たかな」ですから「いらっしゃいませ」という言葉は絶対出てこない。防御体制になるのですね。それが当たり前だと思っていました。
 あるとき末吉市長と話していると「お前たちは守りばっかりするからそんなことになるのだと。記者が来たら構えるな。何でも話せ。相手はわかっているのだ。分かっている上で取材にくるのだ。それをお前たちが隠そうとするから、いろいろやられるので、うけいれ。」こうなったわけです。それで広報室長さんと話をして、そういう対応をしていったわけです。
 一つずつ改めていったわけですが、なかなか遅々として変わりません。
 それで役所も、もう一つ悪いところ「たらい回し」一つのところでかたづければ良いのに。どんどんどんどん回っていくわけですね。
 私も一つ経験があるのですが、秋になったらイチョウの木に銀杏がなるのです。銀杏のみが道路におちる。それを車が踏み潰します。悪臭がするのです。非常ににおいがきつい。それを市民がどうにかしてくれと道路課に電話をしたそうです。そしたら、道路課があれは街路課が担当ですといったそうですね、道路課も街路課も市民には関係ないです。それでも辛抱して街路課に電話した、落ちているのは街路ですが木が生えているのは公園です。というのですね、公園に電話をすると「どこどこに委託しておりますと」「いいかげんにしろ」という一つの例ですけれど。
 そういう「たらいまわし」が随所にあったわけです。今では「ワンストップサービス」といって、一つの課に電話すればすべて解消すると。私も市のOBですから市役所を応援するわけではございませんが、まだまだと思いますが、市役所の窓口も大変よくなっているような気がします。
 先日、市立病院に行きましても八時半に診察が始まるときには、看護婦さんたちが前に出てきて「おはようございます。今から診察を始めます」というような対応になって来ました。
 電話をしても、民間企業の指導を受けたのですけれど、民間企業は株式会社のどこどこ、の何課ですと。今では名前まで名乗りますね。そういうことをやるようにしていかなければなりません。
 それから、役所言葉を改めなければならない。硬い言葉がありますね非常に。カタカナがある。カタカナを使えばえらくなった気持ちがする。それを改めなければならない。
 それから、先ほどずいぶん昔ですけれど労使紛争が非常につようございました。座り込みをする。職場追求をする、あるとき飲み屋のおかみさんが、給料日に集金に来たら、職場が荒れていて、市役所に暴力団が入っていると、警察に電話したというような話もありました。そういう長い、苦しみの中から労使対決はいかん労使協調にしようということで、長い年月をかけて先輩たちが苦労して労使協調になりました。今では労働組合の幹部も研修所の講師になっておりますし。管理職にも登用もしております。昔では考えられなかったのですが、私が総務の局長をしているときに、組合の幹部がきて、以前は首を切ったり処分したりすると大騒動になったのですが、幹部いわく、市の職員で働かないやつがおろうが、税金泥棒みたいなやつがおろうが、そんなやつは首にしてしまえ。組合の幹部がそこまで言うようになってきました。
そういうことで北九州のイメージは非常によくなってきていると私は思っておりますが、市民の皆さんから見たときは、まだまだじゃないかと思います。
そのようなことはまだ一杯あるわけです。そこで市長がいったように「若いやつにさせろ」というので、若い職員を集めてチームを作りました。チームをつくって、役所の中のここが悪いというのを洗いざらい出してもらったのですね。以前はそういうのが出てくると総務課が取りまとめて、丸め込んでしまうのですね。きれいになってしまう。
 それでは改革ができないので、本音で何もかにも出してもらいます。それを印刷物にして当時一万人の職員に全部配ろうとした。職員は自分たちの悪いところ分かっているのですね。それを全員で共有して改めて行きましょうと。そしたら案の定、市長が言うように五十を過ぎた幹部連中が邪魔しにきた。ある助役から私は呼ばれました。「イメージアップ事務局は役所の批判集を作って編集しているみたいだがそれを見せろ。」といわれた。
 お届けしました、それを見て怒ったわけです。今日まで自分たちがどれだけ苦労して来たと思うのか。労使紛争や同和問題などいろいろあったが皆が力を合わせて今日やっと正常化してきたではないか。その俺たちがやってきたことを批判するのかと、そして、誰の許可を得てこんなものを配ろうとしているのか。お前は紅衛兵を引き連れて反乱を起こすのかとそこまでいわれた。その助役さんがおこったのは、若い職員が言ったまとめの中に、時代遅れの管理職が多すぎる。ということがこれで怒ったわけで。
 それでその印刷物が外に出せない一万人の職員に配ろうと思うけど山済みになったままで。左の方は若い職員が、がんがんやる。右側は古参兵が出すなという議論をする。それで半年過ぎてもこれが外に出ないわけで山積みになった印刷物で、私は床が抜けるのではないかと思ったほどです。
 最終的には出たのですけど。それは管理職の意識が変わってきたわけです。市長はそういうことを先頭に立ってやるということで意識が変わってきた。

 出前トークというのを始めた。市役所の管理職が市民の前に行って当面する課題を説明するわけです。その一つにごみの分別収集があったのです、これは市民の皆さんに手間をかけますから、出て行ってこういうことでやります。資源を大切にします。ということで説明して納得して頂くのです。当時は清掃局といっていましたが、環境の職員だけでは出前トークに出て行く絶対数が足らないわけですね。自治会、婦人会、町内会、会社、いろんな団体の所へ全部行くのですね。それで、福祉の課長さんやら、税の課長さんにも、出前トークを、お願いしたのですね。そしたら税の課長さんが、私は税金のことを一生懸命やっている、市民からしかられ、文句を言われながらも、きちんとやっとる。何でごみの問題に俺が行かないといけないのかと。こういうことですよ。で、「管理職なので行ってください。」とお願いすると、「じゃあ行ってやる。」そのかわりどんな質問が出ても答えられるようにしてくれよ。「ハイわかりました」と出前トークに行った。そして一生懸命話した結果OK が付いたのですね。市民から「あなたも大変だね、こんなことまで。がんばってください。」とこういわれた。で課長さんたちがどんどん出かけて言った、その税の課長さんには次を頼まなかった。そしたらまた行ってもいいぞとこういってきた。行かせなかったら、俺を行かせてくれと、意識が変わってきた。管理職の意識が変わってきた。
 それでもう良いだろうということで、この右の話をしている人たちに話して、この印刷物を全職員に出すようにしました。
 で、助役のところに、了解を取りに行った。助役は反対を向いたままものを言ってくれません。それで出ないわけですよ。あるとき市長から呼ばれまして、その若い職員も怒っているわけですよ、なんでも言えなんでも出せといって出した。何で配らんのかと。市長は市長で、「若いやつにやらせろといったでしょ、何で出さないのか。」というわけです。助役が反対しているとはいえませんから、市の最高幹部からストップがかかりましてといいますと「最高幹部は俺ではないかと。」言うことでそれをドンと出し結局は何事も無く終わりました。

11  平成七年一月十七日阪神の大震災が起こりました。テレビから出てくる画面に壮絶な姿が映っておりました。それで市の職員から神戸市が困っている。あの災害がもし北九州市で起こったら私たちもどういうことをしたら良いのか、だから神戸へ応援に行こうということになったのです。

 どうするのかと。ボランティアで神戸に応援に行こうということになった。皆で話し合いをしました。そしたら、二十人編成で十班出そう、一週間交代で。そういうことになりました。交通機関がありません。だから交通局で交通局を引退したバスがあると。それで行こうと。運転手も交通局にボランティアでお願いしようと。じゃあ神戸に行って泊まるところが無い。市には山岳部がある。山岳部にテントを出してもらおう、食料はどうするか。皆からカンパを出してもらって行こう。自転車を積んでいこう。そういう段取りをしまして二十人班の十班で二百人応募したところ四百人くらいの応募がありました。班編成をしまして神戸市に行かせようと。そしたら区助役から呼び出しがあり、「お前たちは神戸に行こうとしているが神戸から要請があったのか。」と聞くのです。「そんなものはありません。」「何しに行くのか。」というのですね。行けばいろいろあるでしょう。することが無ければ老人の肩でもたたいてくればいいやないですか、これが助役の刺激をしたわけです。私の、ものの言い方が悪い。そして、「事故があったらどうするのか。」余震があっていましたから、いやボランティアですから自己責任です。休みも全部とって自分で行きます。そういう職員が四百人いますとこう言ったのです。また市長のところへ行こうとしたらまた賦が悪いことに、一月ですから市長が選挙戦で外走り回っていて役所にいないわけです。助役さん3人おる中で、その中の一人の助役さんが「よしよかろう。」ということで神戸行きが決まりました。ですから、なかなか役所の中の意識を変えるのは大変ですけれど、やっと動き出したのですね。私は自分で言うのもおかしいのですが、よくがんばれたなと自分自身思います。
 有森裕子ではないけれど「自分でもがんばった」こう思うのですね。それで、なぜそうなったか、という一つに 池見 酉次郎先生という方がおられるのですね。ご存知の方もおられるかもしれませんが、九大の名誉教授。東洋医学の権威者。セルフコントロールの専門家ですね。西洋医学の発達している今日、東洋医学の大切さを説いた日本の権威者です。この先生の公演を中小企業の社長さんたちと聞いたのです。病気は治ると思わないと直らないよ。こういうのですね。もうだめだと思ったら絶対だめだ。そうおっしゃるわけです。日々生活する中で腹が立つことがあるだろう腹を立てなさんな。昔の人はいいことを言っている。腹を立てると断腸の思いというでしょ。そのとき医学的に見たら腸がのた打ち回って毛細血管から内出血しているのだと。先生がそうおっしゃる。だからは腹を立ててはいけませんよ。しかし今の時代、腹を立てずにはいきませんよね、ストレスがたまるでしょ。そういう気が大事なのですと。言う講和を頂きました。一つの例を出されて、長崎で自分の弟子が難病にかかったと相談にこられた、しかし自分は答えを出しきれずに、関西に専門医がいるのでそちらに紹介したと。関西にその先生が行ったと。もちろん診ていただくのも医者、紹介したのも医者。患者も医者です。行ったら診断結果が出て、あなたの命は6ヶ月ですとこういわれたそうです。そう言われると普通の人は目の前が真っ暗くなる。ところがそのお医者さんは目の前が明るくなったと、そのお医者さんは「あーあと6ヶ月か、やらないといけないことが山ほどある。」スケジュールを作ったそうです。

12

当時新幹線が岡山までしかなく在来特急に乗って長崎まで帰る間にスケジュールを作り、月一回関西まで行ったそうです、そして5ヶ月くらいたって後一ヶ月ですねといったときに病気が進むどころか、回復しているのです。治っているのですね。それで先生に連絡があって私は誤診ですかねといったという話しがあるのですが、要するにやろうと思わなければできないよという話を聞いてそういうのが頭にありましてがんばることができたのではと思っています。

 もう一つは、なんと言っても末吉市長が強力なリーダーシップを持っていたのですね。その市長から市の幹部は託されていろいろやってきたわけですが、
市長は走り回るのです街の中を、朝早くから、宮崎の東国原知事ではないですが、どうにかせないかん、ということで、先頭にたって走り回る。それで、管理職のシートノックが始まったわけです。市長に対して私たちが予算要求をする。こういう予算をつけてくださいと言うと市長が質問してくる。こちらは答えの準備をしているからはじめのうちは良いが次から次に質問が来て答えに窮する訳です。
 今政府がやっている仕分け人作業のようなものですね。質問が来て答えられない、だから後ろを向くのですね、後ろには課長さんが控えていますから、課長が答える。また質問が来る、後ろを向く、そうしたら市長が「前向いとけ。後ろを向くな。」と、こういう訳です。予算要求もありますが、議会の勉強会もあるのですが、それも同じなのですが、とうとう市長が「これからは一人で来い。部下を連れて来るな。」と、こう言ったのです。今日、当時、市はここで「レトロを立ち上げた男」木戸さんがおられますがその当時消防局長をされていました。彼が後ろを向いたかどうかはわかりませんが、そういうことがありました。前向いとけでしょ。局長達が困りまして一人で来いでしょ。一人では勘弁してくださいと陳情行って、部長さんまでは同行してもらうことを許してもらいました。
 ただ議会の勉強会だけはそれぞれの局長一人、要するにシートノックするわけです。勉強しろ。

13

14

15

16

17

 市長は朝4時から起きて勉強してくる。朝出勤したら市の幹部を呼んで宿題をだすわけです。次から次から、敵の市長は頭がいい。情報の量が多い。情報の質が高い。それに比して頭の悪い、情報の量の少ない。情報の質の悪いのが出勤前まで熟睡してくるのです。勝負にならない。やられぱなし。それで時々逆らうわけです。向こうから見たら無駄な抵抗者かもしれませんが、時々反論する。「こうせ、ああせ」「できません」そしたら「なんでできんのか、お前たちはすぐにできませんという。」「前例が無い。」という。やったことが無いという。「やれ!」という。そこで私は行っちゃ行けない台詞を履いてしまったわけです。「そんな市長さん思い付きはいけないですよ」と言ったのです。そしたら起こって立ち上がって「出て行け貴様」と「俺は朝4時から起きて勉強してきているのだ、二度と俺の前に顔出しするな。」と市長室から追い出されました。
 あ。しまったと思ったけれどしょうがない、そしたら一時間か一時間半位したら三人助役さんがいるのですが、その一人と収入役さんが、私のところへ来まして。俺たちが市長から呼ばれた。山下に指示するけどあいつがいう事を効かない。あれこれ言うてものだから、お前たちに指示するからやれ。助役さんたちも「それはだめですよ。山下の言うとおりです。」と言ってこられたそうです。わざわざ私のところに言いに来てくれた。大変うれしかったですね。こっちも市長から二度と来るなというから行かなかった。そしたら腑が悪く、玄関先でぱったり会った「何しているかおまえ、一つも顔ださないで」とおっしゃるのです。サラリーマンは弱いですね、大将からそう言われると行か行かないといけないのかなという気になります。そのうちに人事異動があって、私は秘書室長になったわけです。毎日顔あわせなければならないようになるわけです。末吉さんというのは、よいしょするわけではありませんが。そういうこだわりというのは無いわけです。

 もう一つ私が逆らったのは、総務局長しているときに議会がもめたのです。北九州市議会というのはしょっちゅうもめる、議長人事のようになったら徹夜みたいになるのですね。もめていたときに市長から「ちょっと来い」と言う事で電話が入ったらしいのですが、私は行かなかった。十分か十五分したらまた電話が入った、市長が来いと言っているのですよ、と言われたけど私は行かなかった。そしたら秘書がきて、「市長が呼んでいるのですよ。」「わかっている。私は忙しい。市長に会う暇ない。」中身はわかっているのですから。そしたら秘書さんが「では市長にそういいますよ」「良いですよ」そうしたら市長が来たのです。そして開口一番「山下さんご無沙汰しております。」これには参るのですよね。
 その秘書さんは当大学で教授をやっておられます。そういうことがありました。そうこうしているうちに私、収入役にさせて頂きました。収入役というのを皆さんご存知かどうかは、知りませんが、収入役と言うのは明治の初期に市制町村制と言うのができたときに、市長が悪いことをする。市長が金を使い込んだときに、その収入役が持っている田畑山林を処分してその穴埋めをする。そういう人が収入役に選ぶのです。ですから私収入役になって田畑山林ありませんよ。と言ったことがある。それはもう時代が変わりました。
 市長は収入役を気に食わないからといって任期一杯。首にすることはできない四年間。助役は気に食わなかったらいつでも解雇できる。辞めさせることができる。収入役は市長のすることをチェックする。それが仕事なのです。
 収入役になってあるとき新聞記者さんが取材にこられた。
 取材の内容は市長が四選目に選挙に出る。だから、どう思いますか?多選ではないかということでしょう?これはなかなか答えにくいので、「やり残した仕事が一杯あるでしょうそれをやり遂げようと思っているのではないですか?」とお話しました。それから次に出てきた質問は、山下さんあなたは前の市長の谷伍平市長と末吉さんと両方に仕えたがどうですかと言うのです。
市長を人物月旦するというのは無理な話。それから政策批判をするのも無理な話でそれで私が谷五平さんは国鉄出身、JR出身。レールの上を時間通り走って来ます。それで海軍出身ですから時間に非常に厳しい。だから時間通りですね。
 末吉さんは建設省ですからどこ走るかわからない。あっち走りこっち走り、埃と騒音巻き散らかして走ります。それがレールだと、そういっているのですよ。それに若干お行儀が悪い。こういったわけです。
 そして末吉市長が「俺はフライングメアー・空飛ぶ市長、あっち行きこっち行き」だと。僕は陸上競技やっていたので、あれは空とぶ市長ではない、ピストルがなる前に飛び出すフライングメアーだと。新聞記者に言ったのです。市長が新聞記者に何もかんも言えと言ったので、次の日新聞にドカンと出た。朝起きたら、家内が「お父さんが市長を批判したのが新聞に出ていますよ。」と、うちの奥さんが言うわけですよ。いろんな人から電話があって、市長は今から選挙戦に出ようと言う時に市の幹部がこんなこといってどうするか。と批判を浴びたのです。しまったと思ったけれど。ちょうど腑が悪く、その日に市の幹部会議というのがあり市の局長さんが集まる会議。で、局長さんたちは変な顔して私を見る。そこに市長が入ってきました。かたとどおりの会議で終わった。
 市長が立ち上がって「いよいよ選挙戦になったから自分も街に出て行く。留守がちになるがお前たち頼むぞ。」と、「今日収入役から厳しいことを言われているので肝に銘じております。」と私の肩をぽーんとたたいて、一言の挨拶も無し。会話も無し。
 だから思ったのですね、皆さん、お前は市長の批判をしたと言うけれど、その新聞記者さんは、エールを送ってくれたのではないか、逆に。評価の分かれるところですけれど。そういうこともありました。

18

19

25

 

 それから次に役所のことばかり、言っていてもしょうがないので同窓会と大学との係わりについて少しお話したいと思います。
 平成十七年の四月に当大学は独立行政法人になりました。民間から理事長がお見えになり経営に携わります。学長は教育研究を担当します。こういうような二本立てで大学の改革が進められたわけです。六年間の中期計画が策定されました160項目の項目が定められたのですね。それに北の翼ですね。ヘッド部分は経営です。右翼が教育・右翼が研究・ 尾翼が社会貢献とか国際貢献 こういう第一期中期計画が策定されました。これは大学改革のためのシステムを構築すると言う6年間だったと思います。今年度で終わります。まもなく第二期が策定されると思います。これにつきましては大学側から説明がありました。

 同窓会ですね、非常に詳しく説明がありました。じゃあ大学がこういう風に変わろうとしているときに、同窓会はどうするのか、今のままでいいのかと言う議論があったのです。一部は同窓会と言うのは仲良しクラブではないか、大学が変わってもそんなところまでいちいち係わる必要は無いと言う意見もありました。しかし、そうはいかんよ。と大学側が変わるのなら同窓会もかわらないと、同窓会の幹部の中に当時女性の幹部で大変元気のいい人がいました。「会長。大学がここまで変わろうとしているのですよ。同窓会も性根を入れてやろうじゃないですか。やること一杯あるでしょう。」と私の尻をたたくのです。
 皆で話して、じゃあ同窓会はどうあるべきか。あるべき姿は何かと言うのを皆で作り上げました。そして長期構想と言うのを作り上げたのですね。
 同道会は任意ですからはいるはいらんは自由です。全員参加入れと言うわけにはならないのですが。組織にクオーター理論と言うのがありますね4分の1。その成員の4分の1が変われば組織は変わる。同窓会は10パーセントでとても4分の1には行きつきません。だから10パーセントの人の関心をどういう風に持っていくかという時期のご苦労があると思います。私はこの講座の第一回のトップバッターにあとの会長さんの田村さんがお話しましたが、田村さんを口説き落とすのに骨をおりました。しかし今この時期に引っ張っていく人がいないといけないので田村さんには大変ご迷惑をおかけしておりますが。
 皆で支えていかなければならないと思っています。
 大学をよくするためには就職率が高くないといけませんね。北九大に入ったら就職の心配いりませんよと言う風になっていただきたい。大学もキャリアセンターを中心にいろいろやっております。苦労されております。ちょっと古いのですが平成二十年度には就職率93.8%、国際環境工学部は前年百パーセントです。
 今新聞を見ても、就活に父兄の4割が参加すると言う時代です。じゃあOBも、後輩の学生たちの就職に何か応援できないかと言うことで、十八年の春に関西で懇談会をいたしました。関西で活躍している主だった人を集めて、大学側からも担当者が出席しました。その秋は東京でやりました。理事長も出られたし春山副学長もでられた懇親会もいたしました。
 平成二十年には福岡でやったのですね。福岡は非常に支部長以下役員のかた熱心で、大学側と懇親会するからと片端からOBを探し出し引っ張り出して盛大な懇談会が開かれました。  
 そのとき大学側から言われたのは学生がOBのおられる企業に訪問したいとそう言うような受け入れ態勢をとってほしい。それから就職活動で壁にぶつかったときには、アドバイスをしてほしい。企業体験と言うのですかインターンシップ制度を取り入れてほしい。企業で活躍している人のリスクをいただけないか。一方OBからは現在社会で求めている必要な人はこういう人だ。こういう学生を育てて送り出してほしい。必要があればいつでも学生のところへ行って説明しますよ。こういうことになりました。OBも大学も力を合わせていこう。そういう時代になりました。それから、中京で若いOBも非常に元気のある人がいる「チョウ ケイセイさん」・女性・中国からの留学生・平成5年に卒業しました。中京支部の総会に行ったときに彼女が来ておりました。壇上に上がってスピーチしたのです。「私は中国から北九州大学に留学しました。最初は心配でした。しかし皆さんのささえがあって今となって北九州大学卒業してよかったと思います。同窓会にも感謝しております。奨学資金をいただきました」この奨学資金は投げっぱなしで返してもらわなくていいのです。奨学金渡しました。
 「したがって、アルバイトをする回数を減らし勉強に打ち込んで今日就職できました。」と。これは涙が出るほどうれしかったですね。
 同窓会に帰ってその話をして奨学金増やすかっといったところ短絡過ぎる。とお叱りを頂だきましたが。
 それから彼女が最後にもう一つ言ったのは「後輩の留学生が中国から来ます。その人たちと一緒になって国際的なこともやってまいります。と言う暖かいメッセージをいただきました。
 ここに記章があるのですが。これを見ていただいたらわかりますが、私たちの先輩たちが作ったわけで、昭和25年専門学校から大学になりました。そのときに非常に先輩たちが喜んだ。それでこのときに作った地球儀。太平洋をバックに。「大いに世界に雄飛せん」と言う言葉がありますね。なかなかすばらしい記章。これを見て、その精神に沿って学生時代から海外に行ってもらいたい。国際的な活躍もしてもらいたいと願っております。 
 先般この講座で住友林業の矢野さんがお話しました。海外に留学生を出してください。
 今新聞でも言うように韓国・中国・インドですか、猛烈な数でアメリカに留学している。
 日本は右肩下がりだそうですね。だから同窓会ではそういう海外留学についてもある程度の応援をしておるところです。

20

21

26

それから当大学は地域貢献度が公立大学の中でナンバーワン。大学側から資料もらってきましたものすごいですね。大学の先生方も学生たちも地域貢献活動やっているのですね乳幼児から小中学生・高校生・大学生・社会人・一般社会。膨大な数の地域貢献をやっています。
北九州大学の卒業生も企業戦士として働いたかたがたも、企業を卒業して時間的に余裕の出てきているかた方いるじゃないかと。体力はある培ったノウハウがある。
 そういうものを少し地域のための貢献活動をしようじゃないかと。個人的にはいろいろやっている方たくさんいると思うのですが、語学力を生かしていろいろやっているかたはいらっしゃるでしょう。
 それからもう一つ最後に「神格」という言葉を出しておりますが、これは矢田学長先生が十八年の入学式のときに学生に対する訓示です。
 当時ベストセラーになった「国家の品格」これは藤原正彦と言う方が書いた本で、お読みになったかたいるでしょうが。この藤原さんと言うのはお父様が作家の新田二郎、お母様が藤原ていさんその方が書いた本「国家の品格」これを例にされまして、次世代を担う人たちが品性を欠く行為これがマスコミをにぎあわせています。そしてずっと述べられた中で、競争社会のなかで、卑怯な手を使って相手を傷つけることは、もっとも品格の無い行為です。ルールを守り自己の実力を磨き信頼される人間になることこそが、競争社会で高い品格を持って生きる道です。

 そして学生に向かって「社会に向けて離陸を準備するこの4年間皆さんはたくさんの知識を身につけるとともに品性を持った人間として第一歩を踏み出してもらいたい。」こういうことを言われました。この学生はこの春卒業されてOBになっている。
このことは、まさにわれわれ同窓生一人ひとりがかみ締めなければならない言葉と思っています。北九州大学の卒業生は社会に出ても高い品格を持ってがんばってますよ。」そうなりたいと思います。これが現役学生に対する応援エールになると思います。

22

23

 いろいろと話してまいりました。
 私がラストバッターですけれど。皆さんいいお話をされたのですが。私が一番品格の無い話をしたのではないかと思っています。それでもなお「今をまじめに」と言う気持ちで話したつもりです。
 先般、乗口先生がアメリカのお年寄りから聞いたという言葉がありましたね。「エニ・ウエイ イズ アイ ウエイクアップ イズ ア ファインデイ」「目覚めている間どんな日もファインデイだ。」この言葉は「今をまじめに」と言う言葉に合い通じる気がするのです。西洋東西を問わずそういうものがあるのだと。

 それから、もう一つ、最近一部の市民が学校給食費を払わない。保育料を払わない、奨学資金を返さない。そういう傾向が出てきている。市民の感覚も市に対する感覚が変わってきている。
私が教育委員会にいるときにこんなことがあった。小学校六年生の男の子が先生をたたいた。先生の親が教育委員会に文句を言いにきた。教師が生徒をたたいて、生徒の親が教育委員会に文句を言ってくることはよくあるのですね。
 小学校六年の男の子から教師がたたかれて、教師の親が文句を言ってくるということはどういうことかと。私校長先生に聞いたのです。どういうことですかと。うちの息子は一流大学を出た一流の教師だ。その一流の教師をたたくなんて教育委員会は何しているか。こういうことだそうです。そういう市民が出てきつつあるのです。この方々には「エニデイイズファインデイ」とかそういうことを理解していただいたらごね得とか無いような気がします。市役所の言葉を借りて恐縮ですが、ここにおられる皆様方、ぜひこの町のこの北九州市のイメージを高めることと街の活性化のためにいろんなところでお力を貸していただければありがたいと思います。いろいろ耳障りなこともございましたでしょうが、ご清聴ありがとうございました。